と、山の手は静かだっけ。中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐《な》めはじめた、てっきり放火《つけび》の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦《くろこげ》さね。私が一番|生捕《いけど》って、御覧じろ、火事の卵を硝子《ビイドロ》の中へ泳がせて、追付《おッつ》け金魚の看板をお目に懸ける。……」
「まったく、懸念無量じゃよ。」と、当御堂の住職も、枠眼鏡《わくめがね》を揺《ゆす》ぶらるる。
 講親《こうおや》が、
「欣八、抜かるな。」
「合点だ。」

       四

「ああ、旨《うま》いな。」
 煙草《たばこ》の煙を、すぱすぱと吹く。溝石の上に腰を落して、打坐《ぶっすわ》りそうに蹲《しゃが》みながら、銜《くわ》えた煙管《きせる》の吸口が、カチカチと歯に当って、歪《ゆが》みなりの帽子がふらふらとなる。……
 夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると倒《のめ》りそうになるのを、路傍《みちばた》の電信柱の根に縋《すが》って、片手|喫《ふか》しに立続ける。
「旦那、大分いけますねえ。」
 膝掛《ひざかけ》を引抱《ひんだ》いて、せめてそれにでも暖《あたたま》りたそうな車夫は、値が極《きま》ってこれから乗ろうとする酔客《よっぱらい》が、ちょっと一服で、提灯《ちょうちん》の灯で吸うのを待つ間《ま》、氷のごとく堅くなって、催促がましく脚と脚を、霜柱に摺合《すりあわ》せた。
「何?大分いけますね……とおいでなさると、お酌が附いて飲んでるようだが、酒はもう沢山だ。この上は女さね。ええ、どうだい、生酔《なまよい》本性|違《たが》わずで、間違の無い事を言うだろう。」
「何ならお供をいたしましょう、ええ、旦那。」
「お供だ? どこへ。」
「お馴染《なじみ》様でございまさあね。」
「馬鹿にするない、見附で外濠《そとぼり》へ乗替えようというのを、ぐっすり寐込《ねこ》んでいて、真直《まっす》ぐに運ばれてよ、閻魔《えんま》だ、と怒鳴られて驚いて飛出したんだ。お供もないもんだ。ここをどこだと思ってる。
 電車が無いから、御意の通り、高い車賃を、恐入って乗ろうというんだ。家数四五軒も転がして、はい、さようならは阿漕《あこぎ》だろう。」
 口を曲げて、看板の灯で苦笑して、
「まず、……極《き》めつけたものよ。当人こう見えて、その実方角が分りません。一体、右側か左側か。」と、とろりとして星を仰ぐ。
「大木戸から向って左側でございます、へい。」
「さては電車路を突切《つっき》ったな。そのまま引返せば可《い》いものを、何の気で渡った知らん。」
 と真《しん》になって打傾く。
「車夫《くるまや》、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。」
「……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。」とぐったり俯向《うつむ》く。
「旦那、旦那、さあ、もう召して下さい、……串戯《じょうだん》じゃない。」
 と半分|呟《つぶや》いて、石に置いた看板を、ト乗掛《のっかか》って、ひょいと取る。
 鼻の前《さき》を、その燈《ひ》が、暗がりにスーッと上《あが》ると、ハッ嚔《くさめ》、酔漢《よっぱらい》は、細い箍《たが》の嵌《はま》った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向《あおむ》けに目を明けた。
「ああ、待ったり。」
「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可《いけ》ません。」
「貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。」
「燐寸《マッチ》を上げまさあね。」
「味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で喫《の》むと極《きま》ったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引裂《ひっさ》いて、行燈《あんどん》の火を燃して取って、長羅宇《ながらう》でつけてくれるか。」
 と中腰に立って、煙管を突込《つっこ》む、雁首《がんくび》が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。
「消した、お前さん。」
 内証《ないしょ》で舌打。
 霜夜に芬《ぷん》と香が立って、薄い煙が濛《もう》と立つ。
「車夫《くるまや》。」
「何ですえ。」
「……宿《しゅく》に、桔梗屋《ききょうや》[#ルビの「ききょうや」は底本では「ききやうや」]と云うのがあるかい、――どこだね。」
「ですから、お供を願いたいんで、へい、直《じ》きそこだって旦那、御冥加《ごみようが》だ。御祝儀と思召して一つ暖まらしておくんなさいまし、寒くって遣切《やりき》れませんや。」とわざとらしく、がちがち。
「雲助め。」
 と笑いながら、
「市ヶ谷まで雇ったんだ、賃銭は遣るよ、……車は要らない。そのかわり、蝋燭の燃えさしを貰って行《ゆ》く。……」

       五

 さて酔漢《よっぱらい》は、山鳥の巣に騒見《ぞめ》く、梟《ふくろう》という形で、も一度線路を渡越《わたりこ》した、宿《しゅく》の中ほどを格子摺《こうしず》れに伸《の》しながら、染色《そめいろ》も同じ、桔梗屋、と描《か》いて、風情は過ぎた、月明りの裏打をしたように、横店の電燈《でんき》が映る、暖簾《のれん》をさらりと、肩で分けた。よしこことても武蔵野の草に花咲く名所とて、廂《ひさし》の霜も薄化粧、夜半《よわ》の凄《すご》さも狐火《きつねび》に溶けて、情《なさけ》の露となりやせん。
「若い衆《しゅ》、」
「らっしゃい!」
「遊ぶぜ。」
「難有《ありがと》う様で、へい、」と前掛《まえかけ》の腰を屈《かが》める、揉手《もみで》の肱《ひじ》に、ピンと刎《は》ねた、博多帯《はかたおび》の結目《むすびめ》は、赤坂|奴《やっこ》の髯《ひげ》と見た。
「振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。」
「ちゃんとな、」
 と唐桟《とうざん》の胸を劃《しき》って、
「胸三寸。……へへへ、お古い処、お馴染効《なじみがい》でございます、へへへ、お上んなはるよ。」
 帳場から、
「お客様ア。」
 まんざらでない跫音《あしおと》で、トントンと踏む梯子段《はしごだん》。
「いらっしゃい。」と……水へ投げて海津《かいず》を掬《しゃく》う、溌剌《はつらつ》とした声なら可《い》いが、海綿に染む泡波《あぶく》のごとく、投げた歯に舌のねばり、どろんとした調子を上げた、遣手部屋《やりてべや》のお媼《ば》さんというのが、茶渋に蕎麦切《そばきり》を搦《から》ませた、遣放《やりッぱな》しな立膝で、お下りを這曳《しょび》いたらしい、さめた饂飩《うどん》を、くじゃくじゃと啜《すす》る処――
 横手の衝立《ついたて》が稲塚《いなづか》で、火鉢の茶釜《ちゃがま》は竹の子笠、と見ると暖麺《ぬくめん》蚯蚓《みみず》のごとし。惟《おもんみ》れば嘴《くちばし》の尖《とが》った白面の狐《コンコン》が、古蓑《ふるみの》を裲襠《うちかけ》で、尻尾の褄《つま》を取って顕《あらわ》れそう。
 時しも颯《さっ》と夜嵐して、家中穴だらけの障子の紙が、はらはらと鳴る、霰《あられ》の音。
 勢《いきおい》辟易《へきえき》せざるを得ずで、客人ぎょっとした体《てい》で、足が窘《すく》んで、そのまま欄干に凭懸《よりかか》ると、一小間抜けたのが、おもしに打たれて、ぐらぐらと震動に及ぶ。
「わあ、助けてくれ。」
「お前さん、可《い》い御機嫌で。」
 とニヤリと口を開けた、お媼《ば》さんの歯の黄色さ。横に小楊枝《こようじ》を使うのが、つぶつぶと入る。
 若い衆飛んで来て、腰を極《き》めて、爪先《つまさき》で、ついつい、
「ちょっと、こちらへ。」
 と古畳八畳敷、狸を想う真中《まんなか》へ、性《しょう》の抜けた、べろべろの赤毛氈《あかもうせん》。四角でもなし、円《まる》でもなし、真鍮《しんちゅう》の獅噛《しがみ》火鉢は、古寺の書院めいて、何と、灰に刺したは杉の割箸《わりばし》。
 こいつを杖《つえ》という体《てい》で、客は、箸を割って、肱《ひじ》を張り、擬勢を示して大胡坐《おおあぐら》に※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》となる。
「ええ。」
 と早口の尻上りで、若いものは敷居際に、梯子段見通しの中腰。
「お馴染様は、何方《どなた》様で……へへへ、つい、お見外《みそ》れ申しましてございまして、へい。」
「馴染はないよ。」
「御串戯《ごじょうだん》を。」
「まったくだ。」
「では、その、へへへ、」
「何が可笑《おか》しい。」
「いえ、その、お古い処を……お馴染|効《がい》でございまして、ちょっとお見立てなさいまし。」
 彼は胸を張って顔を上げた。
「そいつは嫌いだ。」
「もし、野暮なようだが、またお慰み。日比谷で見合と申すのではございません。」
「飛んだ見違えだぜ、気取るものか。一ツ大野暮に我輩、此家《ここ》のおいらんに望みがある。」
「お名ざしで?」
「悪いか。」
「結構ですとも、お古い処を、お馴染効でございまして。……」

       六

 対方《あいかた》は白露《しらつゆ》と極《きま》った……桔梗屋の白露、お職だと言う。……遣手部屋の蚯蚓《みみず》を思えば、什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そもさん》か、狐塚の女郎花《おみなえし》。
 で、この名ざしをするのに、客は妙な事を言った。
「若い衆、註文というのは、お照《てら》しだよ。」
「へい、」
「内に、居るだろう。」
「お照しが居《お》りますえ?」
 と解《げ》せない顔色《かおつき》。
「そりゃ、無いことはございませんが、」
「秘《かく》すな、尋常に顕《あらわ》せろ。」と真赤《まっか》な目で睨《にら》んで言った。
「何も秘します事はございません、ですが御覧の通り、当場所も疾《とう》の以前から、かように電燈になりました。……ひきつけの遊君《おいらん》にお見違えはございません。別して、貴客様《あなッさま》なぞ、お目が高くっていらっしゃいます、へい、えッへへへへ。もっとも、その、ちとあちらへ、となりまして、お望みとありますれば、」
「だから、望みだから、お照しを出せよ。」
「それは、お照しなり、行燈《あんどん》なり、いかようともいたしますんで、とにかく、……夜も更けております事、遊君《おいらん》の処を、お早く、どうぞ。」
 と、ちらりと遣手部屋へ目を遣って、此奴《こいつ》、お荷物だ、と仕方で見せた。
「分らないな。」
 と煙管《きせる》を突込《つっこ》んで、ばったり置くと、赤毛氈《あかもうせん》に、ぶくぶくして、擬《まがい》印伝の煙草入は古池を泳ぐ体《てい》なり。
「女は蝋燭だと云ってるんだ。」
 お媼《ば》さんが突掛《つっか》け草履で、片手を懐に、小楊枝を襟先へ揉挿《もみさ》しながら、いけぞんざいに炭取を跨《また》いで出て、敷居越に立ったなり、汚点《しみ》のある額越しに、じろりと視《み》て、
「遊君《おいらん》が綺麗で柔順《おとな》しくって持てさいすりゃ言種《いいぐさ》はないんじゃないか。遅いや、ね、お前さん。」
 と一ツ叱って、客が這奴《しゃ》言おうで擡《もた》げた頭《ず》を、しゃくった頤《あご》で、無言《だんまり》で圧着《おしつ》けて、
「お勝どん、」と空《くう》を呼ぶ。
「へーい。」
 途端に、がらがらと鼠が騒いだ。……天井裏で声がして、十五六の当の婢《ちび》は、どこから顕《あらわ》れたか、煤《すす》を繋《つな》いで、その天井から振下《ぶらさ》げたように、二階の廊下を、およそ眠いといった仏頂面で、ちょろりと来た。
「白露さん、……お初会《しょかい》だよ。」
「へーい。」
 夢が裏返ったごとく、くるりと向うむきになって、またちょろり。
「旦那こちらへ、……ちょうどお座敷がございます。」
「待て、」
 と云ったが、遣手の剣幕に七分の恐怖《おそれ》で、煙草入を取って、やッと立つと……まだ酔っている片膝がぐたりとのめる。
「蝋燭はどうしたんだ。」
「何も御会計と御相談さ。」と、ずっきり言う。
 ……彼は、苦い顔で立上って、勿論広くはない廊下、左右の障子へ突懸《つっかけ》るように、若い衆の背中を睨《
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング