「時に……」
 と延一は、ギクリと胸を折って、抱えた腕なりに我が膝に突伏《つっぷ》して、かッかッと咳をした。

       十

 その瞼に朱を灌《そそ》ぐ……汗の流るる額を拭《ぬぐ》って、
「……時に、その枕頭《まくらもと》の行燈《あんどん》に、一挺消さない蝋燭があって、寂然《しん》と間《ま》を照《てら》しておりますんでな。
 ――あれは――
 ――水天宮様のお蝋です――
 と二つ並んだその顔が申すんでございます。灯の影には何が映るとお思いなさる、……気になること夥《おびただ》しい。
 ――消さないかい――
 ――堪忍して――
 是非と言えば、さめざめと、名の白露が姿を散らして消えるばかりに泣きますが。推量して下さいまし、愛想尽《あいそづか》しと思うがままよ、鬼だか蛇《じゃ》だか知らない男と一つ処……せめて、神仏《かみほとけ》の前で輝いた、あの、光一ツ暗《やみ》に無うては恐怖《こわ》くて死んでしまうのですもの。もし、気になったら、貴方《あなた》ばかり目をお瞑《つむ》りなさいまし。――と自分は水晶のような黒目がちのを、すっきり※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、――昼さえ遊ぶ人がござんすよ、と云う。
 可《よ》し、神仏もあれば、夫婦もある。蝋燭が何の、と思う。その蝋燭が滑々《すべすべ》と手に触る、……扱帯《しごき》の下に五六本、襟の裏にも、乳《ち》の下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚《はばか》る、荒神《あらがみ》も少くはありません。
 ばかりでない。果ては、その中から、別に、綺麗な絵の蝋燭を一挺抜くと、それへ火を移して、銀簪《ぎんかんざし》の耳に透《とお》す。まずどうするとお思いなさる、……後で聞くとこの蝋燭の絵は、その婦《おんな》が、隙《ひま》さえあれば、自分で剳青《ほりもの》のように縫針で彫って、彩色《いろどり》をするんだそうで。それは見事でございます。
 また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装《なり》こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向《あおむ》けに結んで、緋《ひ》や、浅黄や、絞《しぼり》の鹿《か》の子の手絡《てがら》を組んで、黒髪で巻いた芍薬《しゃくやく》の莟《つぼみ》のように、真中《まんなか》へ簪《かんざし》をぐいと挿す、何|転進《てんじん》とか申すのにばかり結う。
 何と絵蝋燭を燃したのを、簪で、その髷《まげ》の真中へすくりと立てて、烏羽玉《うばたま》の黒髪に、ひらひらと篝火《かがりび》のひらめくなりで、右にもなれば左にもなる、寝返りもするのでございます。
 ――こうして可愛がって下さいますなら、私ゃ死んでも本望です――
 とこれで見るくらいまた、白露のその美しさと云ってはない。が、いかな事にも、心を鬼に、爪を鷲《わし》に、狼の牙《きば》を噛鳴《かみな》らしても、森で丑《うし》の時|参詣《まいり》なればまだしも、あらたかな拝殿で、巫女《みこ》の美女を虐殺《なぶりごろ》しにするようで、笑靨《えくぼ》に指も触れないで、冷汗を流しました。……
 それから悩乱。
 因果と思切れません……が、
 ――まあ嬉しい――
 と云う、あの、容子《ようす》ばかりも、見て生命《いのち》が続けたさに、実際、成田へも中山へも、池上、堀の内は申すに及ばず。――根も精も続く限り、蝋燭の燃えさしを持っては通い、持っては通い、身も裂き、骨も削りました。
 昏《くら》んだ目は、昼遊びにさえ、その燈《ともしび》に眩《まぶ》しいので。
 手足の指を我と折って、頭髪《ずはつ》を掴《つか》んで身悶《みもだ》えしても、婦《おんな》は寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに従って、数を増し、燈《ひ》を殖《ふや》して、部屋中、三十九本まで、一度に、神々の名を輝かして、そして、黒髪に絵蝋燭の、五色の簪を燃して寝る。
 その媚《なまめ》かしさと申すものは、暖かに流れる蝋燭より前《さき》に、見るものの身が泥になって、熔《と》けるのでございます。忘れません。
 困果と業《ごう》と、早やこの体《てい》になりましたれば、揚代《あげだい》どころか、宿までは、杖に縋《すが》っても呼吸《いき》が切れるのでございましょう。所詮の事に、今も、婦《おんな》に遣わします気で、近い処の縁日だけ、蝋燭の燃えさしを御合力《おごうりょく》に預ります。すなわちこれでございます。」
 と袂《たもと》を探ったのは、ここに灯《ひとも》したのは別に、先刻《さっき》の二七のそれであった。
 犬のしきりに吠《ほ》ゆる時――
「で、さてこれを何にいたすとお思いなさいます。懺悔《ざんげ》だ、お目に掛けるものがある。」
「大変だ、大変だ。何だって和尚さん、奴もそれまでになったんだ。
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