供えたのだ、と持つ手もわななく、体《み》を震わして喜ぶんだ、とかねて聞いておりましたものでございますから、その晩は、友達と銀座の松喜で牛肉をしたたか遣りました、その口で、
 ――水天宮様のだ、人形町の――
 と申したでございます。電車の方角で、フト思い付きました。銀座には地蔵様もございますが、一言で、誰も分るのをと思いましてな。ええ。……」
 とじろじろと四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す。
 欣八は同じように、きょろきょろと頭を振る。

       九

「お聞き下さい。」
 と痩《や》せた膝を痛そうに、延一は居直って、
「かねて噂を聞いたから、おいらんの土産にしようと思って、水天宮様の御蝋の燃えさしを頂いて来たんだよ、と申しますと、端然《きちん》と居坐《いずまい》を直して、そのふっくりした乳房へ響くまで、身に染みて、鳩尾《みずおち》へはっと呼吸《いき》を引いて、
 ――まあ、嬉しい――
 とちゃんと取って、蝋燭を頂くと、さもその尊さに、生際《はえぎわ》の曇った白い額から、品物は輝いて後光が射《さ》すように思われる、と申すものは、婦《おんな》の気の入れ方でございまして。
 どうでございましょう。これが直《じ》き近所の車夫の看板から、今しがた煙草を吸って、酒粘《さけねば》りの唾《つばき》を吐いた火の着いていたやつじゃございますまいか。
 なんぼでも、そうまで真《しん》になって嬉しがられては、灰吹を叩いて、舌を出すわけには参りません。
 実は、とその趣を陳《の》べて、堪忍しな、出来心だ。そのかわり、今度は成田までもわざわざ出向くから、と申しますと、婦《おんな》が莞爾《にっこり》して言うんでございます。
 これほどまでに、生命《いのち》がけで好きなんですもの、どこの、どうした蝋燭だか、大概は分ります。一度燃えたのですから、その香《におい》で、消えてからどのくらい経《た》ったかが知れますと、伺った路順で、下谷《したや》だが浅草だが推量が付くんです。唯今《ただいま》下すったのは、手に取ると、すぐに直き近い処だとは思いました、……では、大宗寺《だいそうじ》様のかと存じましたが、召上った煙草の粉が附着《くッつ》いていますし、御縁日ではなし、かたがた悪戯《いたずら》に、お欺《かつ》ぎだとは知ったんですが、お初会の方に、お怨みを言うのも、我儘《わがまま》と存じて遠慮しました。今度ッからは、たとい私をお誑《だま》しでも、蝋燭の嘘を仰有《おっしゃ》るとほんとうに怨みますよ、と優しい含声《ふくみごえ》で、ひそひそと申すんで。
 もう、実際嘘は吐《つ》くまい、と思ったくらいでございます。
 部屋着を脱ぐと、緋《ひ》の襦袢《じゅばん》で、素足がちらりとすると、ふッ、と行燈を消しました。……底に温味《あたたかみ》を持ったヒヤリとするのが、酒の湧《わ》く胸へ、今にもいい薫《かおり》で颯《さっ》と絡《まつ》わるかと思うと、そうでないので。――
 カタカタと暗がりで箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けましたがな。
 ――水天宮様のをお目に掛けましょう――
 そう云って、柔らかい膝の衣摺《きぬず》れの音がしますと、燐寸《マッチ》を※[#「火+發」、248−3]《ぱっ》と摺《す》った。」
「はあ、」
 と欣八は、その※[#「火+發」、248−5]とした……瞬きする。
「で、朱塗の行燈の台へ、蝋燭を一|挺《ちょう》、燃えさしのに火を点《とも》して立てたのでございます。」
 と熟《じっ》と瞻《みまも》る、とここの蝋燭が真直《まっすぐ》に、細《ほっそ》りと灯が据《すわ》った。
「寂然《しん》としておりますので、尋常《ただ》のじゃない、と何となくその暗い灯に、白い影があるらしく見えました。
 これは、下谷の、これは虎の門の、飛んで雑司《ぞうし》ヶ谷のだ、いや、つい大木戸のだと申して、油皿の中まで、十四五挺、一ツずつ消しちゃ頂いて、それで一ツずつ、生々《なまなま》とした香《におい》の、煙……と申して不思議にな、一つ色ではございません。稲荷様《いなりさま》のは狐色と申すではないけれども、大黒天のは黒く立ちます……気がいたすのでございます。少し茶色のだの、薄黄色だの、曇った浅黄がございましたり。
 その燃えさしの香《におい》の立つ処を、睫毛《まつげ》を濃く、眉を開いて、目を恍惚《うっとり》と、何と、香《におい》を散らすまい、煙を乱すまいとするように、掌《てのひら》で蔽《おお》って余さず嗅《か》ぐ。
 これが薬なら、身体《からだ》中、一筋ずつ黒髪の尖《さき》まで、血と一所に遍《あまね》く膚《はだ》を繞《めぐ》った、と思うと、くすぶりもせずになお冴《さ》える、その白い二の腕を、緋の袖で包みもせずに、……」
 聞く欣八は変な顔色《がんしょく》。
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