一つしゃくって、頬被りから突出す頤《あご》に凄味《すごみ》を見せた。が、一向に張合なし……対手《あいて》は待てと云われたまま、破れた暖簾《のれん》に、ソヨとの風も無いように、ぶら下った体《てい》に立停《たちどま》って待つのであるから。
「どこへ行く、」
 黙って、じろりと顔を見る。
「どこへ行くかい。」
「ええ、宅へ帰りますでございます。」
「家《うち》はどこだ。」
「市ヶ谷田町でございます。」
「名は何てんだ、……」
 と調子を低めて、ずっと摺寄《すりよ》り、
「こう言うとな、大概生意気な奴《やつ》は、名を聞くんなら、自分から名告《なの》れと、手数を掛けるのがお極《きま》りだ。……俺はな、お前《めえ》の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可《い》いか。その筋の刑事だ。分ったか。」
「ええ、旦那でいらっしゃいますか。」
 と、破れ布子《ぬのこ》の上から見ても骨の触って痛そうな、痩《や》せた胸に、ぎしと組んだ手を解いて叩頭《おじぎ》をして、
「御苦労様でございます。」
「むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。」
「進藤|延一《のぶかず》と申します。」
「何だ、進藤延一、へい、変に学問をしたような、ハイカラな名じゃねえか。」
 と言葉じりもしどろになって、頤《あご》を引込《ひっこ》めたと思うと、おかしく悄気《しょげ》たも道理こそ。刑事と威《おど》した半纏着は、その実町内の若いもの、下塗《したぬり》の欣八《きんぱち》と云う。これはまた学問をしなそうな兄哥《あにい》が、二七講の景気づけに、縁日の夜《よ》は縁起を祝って、御堂|一室処《ひとまどころ》で、三宝を据えて、頼母子《たのもし》を営む、……世話方で居残ると……お燈明の消々《きえぎえ》時、フト魔が魅《さ》したような、髪|蓬《おどろ》に、骨|豁《あらわ》なりとあるのが、鰐口《わにぐち》の下に立顕《たちあらわ》れ、ものにも事を欠いた、断《ことわ》るにもちょっと口実の見当らない、蝋燭の燃えさしを授けてもらって、消えるがごとく門を出たのを、ト伸上って見ていた奴。
「棄ててはおかれませんよ、串戯《じょうだん》じゃねえ。あの、魔ものめ。ご本尊にあやかって、めらめらと背中に火を背負《しょ》って帰ったのが見えませんかい。以来、下町は火事だ。僥倖《しあわせ》
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