にら》んで、不服らしくずんずん通った。
が、部屋へ入ると、廊下を背後《うしろ》にして、長火鉢を前に、客を待つ気構えの、優しく白い手を、しなやかに鉄瓶の蔓《つる》に掛けて、見るとも見ないともなく、ト絵本の読みさしを膝に置いて、膚《はだ》薄そうな縞縮緬《しまちりめん》。撫肩《なでがた》の懐手、すらりと襟を辷《すべ》らした、紅《くれない》の襦袢《じゅばん》の袖に片手を包んだ頤《おとがい》深く、清らか耳許《みみもと》すっきりと、湯上りの紅絹《もみ》の糠袋《ぬかぶくろ》を皚歯《しらは》に噛《か》んだ趣して、頬も白々と差俯向《さしうつむ》いた、黒繻子《くろじゅす》冷たき雪なす頸《うなじ》、これが白露かと、一目見ると、後姿でゾッとする。――
「河、原、と書くんだ、河原千平《かわらせんべい》。」
やがて、帳面を持って出直した時、若いものは、軸で、ちょっと耳を掻《か》いて、へへへ、と笑った。
「貴客《あなた》、ほんとの名を聞かして下さいましな。」
犬を料理そうな卓子台《ちゃぶだい》の陰ながら、膝に置かれた手は白し、凝《じっ》と視《み》られた瞳は濃し……
思わず情《なさけ》が五体に響いて、その時言った。
「進藤延一……造兵……技師だ。」
七
「こういう事をお話し申した処で、ほんとにはなさりますまい。第一そんな安店に、容色《きりょう》と云い気質《きだて》と云い、名も白露で果敢《はか》ないが、色の白い、美しい婦《おんな》が居ると云っては、それからが嘘らしく聞えるでございましょう。
その上、癡言《たわこと》を吐《つ》け、とお叱りを受けようと思いますのは、娼妓《じょろう》でいて、まるで、その婦《おんな》が素地《きじ》の処女《むすめ》らしいのでございます。ええ、他の仁にはまずとにかく、私《てまえ》だけにはまったくでございました。
なお怪しいでございましょう……分けて、旦那方は御職掌で、人一倍、疑り深くいらっしゃいますから。」――
一言ずつ、呼気《いき》を吐《つ》くと、骨だらけな胸がびくびく動く、そこへ節くれだった、爪の黒い掌《てのひら》をがばと当てて、上下《うえした》に、調子を取って、声を揉出《もみだ》す。
佐内坂の崖下、大溝《おおどぶ》通りを折込《おれこ》んだ細路地の裏長屋、棟割《むねわり》で四軒だちの尖端《とっぱずれ》で……崖うらの畝々坂《うねうねざか》が引
前へ
次へ
全20ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング