、ほほほ。」
「ご挨拶、恐入った。が、何々院――信女でなく、ごめんを被ろう。その、お母さんの墓へお参りをするのに、何だって、私がきまりが悪いんだろう。第一そのために来たんじゃないか。」
「……それはご遠慮は申しませんの。母の許《とこ》へお参りをして下さいますのは分っていますけれどもね、そのさきに――誰かさん――」
「誰かさん、誰かさん……分らない。米ちゃん、一体その誰かさんは?」
「母が、いつもそういっていましたわ。おじさんは、(極りわるがり屋)という(長い屋)さんだから。」
「どうせ、長屋|住居《ずまい》だよ。」
「ごめんなさい、そんなんじゃありません。だからっても、何も私に――それとも、思い出さない、忘れたのなら、それはひどいわ、あんまりだわ。誰かさんに、悪いわ、済まないわ、薄情よ。」
「しばらく、しばらく、まあ、待っておくれ。これは思いも寄らない。唐突の儀を承る。弱ったな、何だろう、といっちゃなお悪いかな、誰だろう。」
「ほんとに忘れたんですか。それで可《い》いんですか。嘘でしょう。それだとあんまりじゃありませんか。いっそちゃんと言いますよ、私から。――そういっても釣出しにかかって私の方が極りが悪いかも知れませんけれども。……おじさん、おじさんが、むかし心中をしようとした、婦人《おんな》のかた。」
「…………」
藪《やぶ》から棒をくらって膨らんだ外套の、黒い胸を、辻町は手で圧《おさ》える真似して、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ると、
「もう堪忍してあげましょう。あんまり知らないふりをなさるからちょっと驚《おど》かしてあげたんだけれど、それでも、もうお分りになったでしょう。――いつかの、その時、花の盛《さかり》の真夜中に。――あの、お城の門のまわり、暗い堀の上を行ったり、来たり……」
お米の指が、行ったり来たり、ちらちらと細く動くと、その動くのが、魔法を使ったように、向う遥《はる》かな城の森の下くぐりに、小さな男が、とぼんと出て、羽織も着ない、しょぼけた形を顕《あら》わすとともに、手を拱《こまぬ》き、首《こうべ》を垂れて、とぼとぼと歩行《ある》くのが朧《おぼろ》に見える。それ、糧に飢えて死のうとした。それがその夜の辻町である。
同時に、もう一つ。寂しい、美しい女が、花の雲から下りたように、すっと翳《かげ》って、おなじ堀を垂々《だらだら》下《お》りに、町へ続く長い坂を、胸を柔《やわらか》に袖を合せ、肩を細《ほっそ》りと裙《すそ》を浮かせて、宙に漾《ただよ》うばかり。さし俯向《うつむ》いた頸《えり》のほんのり白い後姿で、捌《さば》く褄《つま》も揺《ゆら》ぐと見えない、もの静かな品の好《よ》さで、夜はただ黒し、花明り、土の筏《いかだ》に流るるように、満開の桜の咲蔽《さきおお》うその長坂を下りる姿が目に映った。
――指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余りその姿に似てならない。――
今、目《ま》のあたり、坂を行《ゆ》く女《ひと》は、あれは、二十《はたち》ばかりにして、その夜、(烏をいう)千羽ヶ淵《ふち》で自殺してしまったのである。身を投げたのは潔い。
卑怯《ひきょう》な、未練な、おなじ処をとぼついた男の影は、のめのめと活きて、ここに仙晶寺の磴《いしだん》の中途に、腰を掛けているのであった。
二
「ああ、まるで魔法にかかったようだ。」
頬にあてて打傾いた掌《て》を、辻町は冷く感じた。時に短く吸込んだ煙草《たばこ》の火が、チリリと耳を掠《かす》めて、爪先《つまさき》の小石へ落ちた。
「またまったく夢がさめたようだ。――その時、夜あけ頃まで、堀の上をうろついて、いつ家《うち》へ帰ったか、草へもぐったのか、蒲団《ふとん》を引被《ひきかぶ》ったのか分らない。打《ぶ》ち※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]《の》めされたようになって寝た耳へ、
――兄さん……兄さん――
と、聞こえたのは、……お京さん。」
「返事をしましょうか。」
「願おうかね。」
「はい、おほほ。」
「申すまでもない、威勢のいい若い声だ。そうだろう、お互に二十《はたち》の歳です。――死んだ人は、たしか一つ上だったように後で聞いて覚えている。前の晩は、雨気《あまけ》を含んで、花あかりも朦朧《もうろう》と、霞に綿を敷いたようだった。格子|戸外《そと》のその元気のいい声に、むっくり起きると、おっと来たりで、目は窪《くぼ》んでいる……額《おでこ》をさきへ、門口《かどぐち》へ突出すと、顔色の青さを※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶ》られそうな、からりとした春|爛《たけなわ》な朝景色さ。お京さんは、結いたての銀杏返《いちょうがえし》で、半襟の浅黄の冴えも、黒繻子《くろじゅす》の帯の
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