っては、お志が通らないではありませんか、悪いわ。」
「お叱言《こごと》で恐入るがね、自分から手向けるって、一体誰だい。」
「それは誰方《どなた》だか、ほほほ。」
 また莞爾《にっこり》。
「せいせい、そんな息をして……ここがいい、ちょっとお休みなさいよ、さあ。」
 ちょうど段々|中継《なかつぎ》の一土間、向桟敷《むこうさじき》と云った処、さかりに緋葉した樹の根に寄った方で、うつむき態《なり》に片袖をさしむけたのは、縋《すが》れ、手を取ろう身構えで、腰を靡娜《なよやか》に振向いた。踏掛けて塗下駄に、模様の雪輪が冷くかかって、淡紅《とき》の長襦袢《ながじゅばん》がはらりとこぼれる。
 媚《なまめか》しさ、というといえども、お米はおじさんの介添のみ、心にも留めなそうだが、人妻なれば憚《はばか》られる。そこで、件《くだん》の昼提灯を持直すと、柄の方を向うへ出した。黒塗の柄を引取ったお米の手は、なお白くて優しい。
 憚られもしようもの。磴たるや、山賊の構えた巌《いわお》の砦《とりで》の火見《ひのみ》の階子《はしご》と云ってもいい、縦横町条《たてよこまちすじ》の家《や》ごとの屋根、辻の柳、遠近《おちこち》の森に隠顕しても、十町三方、城下を往来の人々が目を欹《そばだつ》れば皆見える、見たその容子《ようす》は、中空の手摺《てすり》にかけた色小袖に外套の熊蝉が留ったにそのままだろう。
 蝉はひとりでジジと笑って、緋葉《もみじ》の影へ飜然《ひらり》と飛移った。
 いや、飜然となんぞ、そんな器用に行《ゆ》くものか。
「ありがとう……提灯の柄のお力添に、片手を縋って、一方に洋杖《ステッキ》だ。こいつがまた素人が拾った櫂《かい》のようで、うまく調子が取れないで、だらしなく袖へ掻込《かいこ》んだ処は情《なさけ》ない、まるで両杖《りょうづえ》の形だな。」
「いやですよ。」
「意気地はない、が、止むを得ない。お言葉に従って一休みして行こうか。ちょうどお誂《あつら》え、苔滑《こけなめらか》……というと冷いが、日当りで暖い所がある。さてと、ご苦労を掛けた提灯を、これへ置くか。樹下石上というと豪勢だが、こうした処は、地蔵盆に筵《むしろ》を敷いて鉦《かね》をカンカンと敲《たた》く、はっち坊主そのままだね。」
「そんなに、せっかちに腰を掛けてさ、泥がつきますよ。」
「構わない。破《や》れ麻だよ。たかが墨染に
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