という特別の慈悲を便りに、ぼんやりと寂しい街路の霧になって行《ゆ》くのを視《なが》めて、鼻の尖《さき》を冷たくして待っておったぞ。
処へ、てくりてくり、」
と両腕を奮《はず》んで振って、ずぼん下の脚を上げたり、下げたり。
「向うから遣《や》って来たものがある、誰じゃろうか諸君、熊手屋の待っておる水兵じゃろうか。その水兵ならばじゃ、何事も別に話は起らんのじゃ、諸君。しかるに世間というものはここが話じゃ、今来たのは一名の立派な紳士じゃ、夜会の帰りかとも思われる、何分《なにぶん》か酔うてのう。」
三
「皆さん、申すまでもありませんが、お家で大切なのは火の用心でありまして、その火の用心と申す中《うち》にも、一番危険なのが洋燈《ランプ》であります。なぜ危い。お話しをするまでもありません、過失《あやま》って取落しまする際に、火の消えませんのが、壺《つぼ》の、この、」
と目通りで、真鍮《しんちゅう》の壺をコツコツと叩く指が、掌《てのひら》掛けて、油煙で真黒《まっくろ》。
頭髪《かみ》を長くして、きちんと分けて、額にふらふらと捌《さば》いた、女難なきにしもあらずなのが、渡世となれば是非も無い。
「石油が待てしばしもなく、※[#「火+發」、422−7]《ぱっ》と燃え移るから起るのであります。御覧なさいまし、大阪の大火、青森の大火、御承知でありましょう、失火の原因は、皆この洋燈《ランプ》の墜落から転動(と妙な対句で)を起しまする。その危険な事は、硝子壺《がらすつぼ》も真鍮壺も決して差別はありません。と申すが、唯今《ただいま》もお話しました通り、火が消えないからであります。そこで、手前商いまするのは、ラジーンと申して、金山鉱山におきまして金を溶かしまする処の、炉壺《ろつぼ》にいたしまするのを使って製造いたしました、口金《くちがね》の保助器は内務省お届済みの専売特許品、御使用の方法は唯今お目に懸けまするが、安全口金、一名火事知らずと申しまして、」
「何だ、何だ。」
と立合いの肩へ遠慮なく、唇の厚い、真赤《まっか》な顔を、ぬい、と出して、はたと睨《にら》んで、酔眼をとろりと据える。
「うむ、火事知らずか、何を、」と喧嘩腰《けんかごし》に力を入れて、もう一息押出しながら、
「焼けたら水を打懸《ぶっか》けろい、げい。」
と※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》をするかと思うと、印半纏《しるしばんてん》の肩を聳《そび》やかして、のッと行《ゆ》く。新姐子《しんぞっこ》がばらばらと避《よ》けて通す。
と嶮《けん》な目をちょっと見据えて、
「ああいう親方が火元になります。」と苦笑《にがわらい》。
昔から大道店《だいどうみせ》に、酔払いは附いたもので、お職人親方|手合《てあい》の、そうしたのは有触《ありふ》れたが、長外套《なががいとう》に茶の中折《なかおれ》、髭《ひげ》の生えた立派なのが居る。
辻に黒山を築いた、が北風《ならい》の通す、寒い背後《うしろ》から藪《やぶ》を押分けるように、杖《ステッキ》で背伸びをして、
「踊っとるは誰《だい》じゃ、何しとるかい。」
「へい、面白ずくに踊ってる[#「踊ってる」は底本では「踊つてる」]じゃござりません。唯今、鼻紙で切りました骸骨《がいこつ》を踊らせておりますんで、へい、」
「何じゃ、骸骨が、踊《おどり》を踊る。」
どたどたと立合《たちあい》の背《うしろ》に凭懸《よりかか》って、
「手品か、うむ、手品を売りよるじゃな。」
「へい、八通《やとお》りばかり認《したた》めてござりやす、へい。」
「うむ、八通り、この通《とおり》か、はッはッ、」と変哲もなく、洒落《しゃれ》のめして、
「どうじゃ五厘も投げてやるか。」
「ええ、投銭、お手の内は頂きやせん、材《たね》あかしの本を売るのでげす、お求め下さいやし。」
「ふむ……投銭は謝絶する、見識じゃな、本は幾干《いくら》だ。」
「五銭、」
「何、」
「へい、お立合にも申しておりやす。へい、ええ、ことの外音声を痛めておりやすんで、お聞苦しゅう、……へい、お極《きま》りは五銅の処、御愛嬌《ごあいきょう》に割引をいたしやす、三銭でございやす。」
「高い!」
と喝《しか》って、
「手品屋、負けろ。」
「毛頭、お掛値《かけね》はございやせん。宜《よろ》しくばお求め下さいやし、三銭でごぜいやす。」
「一銭にせい、一銭じゃ。」
「あッあ、推量々々。」と対手《あいて》にならず、人の環《わ》の底に掠《かす》れた声、地《つち》の下にて踊るよう。
「お次は相場の当る法、弁ずるまでもありませんよ。……我人《われひと》ともに年中|螻《おけら》では不可《いけ》ません、一攫千金《いっかくせんきん》、お茶の子の朝飯前という……次は、」
と細字《さいじ》に認《したた》め
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