た行燈《あんどん》をくるりと廻す。綱が禁札、ト捧げた体《てい》で、芳原被《よしわらかぶ》りの若いもの。別に絣《かすり》の羽織を着たのが、板本を抱えて彳《たたず》む。
「諸人に好かれる法、嫌われぬ法も一所ですな、愛嬌のお守《まもり》という条目。無銭で米の買える法、火なくして暖まる法、飲まずに酔う法、歩行《ある》かずに道中する法、天に昇る法、色を白くする法、婦《おんな》の惚《ほ》れる法。」

       四

「お痛《いて》え、痛え、」
 尾を撮《つま》んで、にょろりと引立《ひった》てると、青黒い背筋が畝《うね》って、びくりと鎌首を擡《もた》げる発奮《はずみ》に、手術服という白いのを被《はお》ったのが、手を振って、飛上る。
「ええ驚いた、蛇が啖《くら》い着くです――だが、諸君、こんなことでは無い。……この木製の蛇が、僕の手練に依って、不可思議なる種々の運動を起すです。急がない人は立って見て行《ゆ》きたまえよ、奇々妙々感心というのだから。
 だが、諸君、だがね、僕は手品師では無いのだよ。蛇使いではないのですが、こんな処じゃ、誰も衛生という事を心得ん。生命《いのち》が大切という事を弁別《わきま》えておらん人ばかりだから、そこで木製の蛇の運動を起すのを見て行《ゆ》きたまえと云うんだ。歯の事なんか言って聞かしても、どの道分りはせんのだから、無駄だからね、無駄な話だから決して売ろうとは云わんです。売らんのだから買わんでも宜しい。見て行《ゆ》きたまえ。見物をしてお出でなさい。今、運動を起す、一分間にして暴れ出す。
 だが諸君、だがね諸君、歯磨《はみがき》にも種々《いろいろ》ある。花王歯磨、ライオン象印、クラブ梅香散……ざっと算《かぞ》えた処で五十種以上に及ぶです。だが、諸君、言ったって無駄だ、どうせ買いはしまい、僕も売る気は無い、こんな処じゃ分るものは無いのだから、売りやせん、売りやせんから木製の蛇の活動を見て行《ゆ》きたまえ。」
 と青い帽子をずぼらに被《かぶ》って、目をぎろぎろと光らせながら、憎体《にくてい》な口振《くちぶり》で、歯磨を売る。
 二三軒隣では、人品骨柄《じんぴんこつがら》、天晴《あっぱれ》、黒縮緬《くろちりめん》の羽織でも着せたいのが、悲愴《ひそう》なる声を揚げて、殆《ほとん》ど歎願に及ぶ。
「どうぞ、お試し下さい、ねえ、是非一回御試験が仰ぎたい。口中に熱あり、歯の浮く御仁、歯齦《はぐき》の弛《ゆる》んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口の臭い、舌の粘々《ねばねば》するお方がありましたら、ここに出しておきます、この芳口剤で一度|漱《うがい》をして下さい。」
 と一口がぶりと遣《や》って、悵然《ちょうぜん》として仰反《のけぞ》るばかりに星を仰ぎ、頭髪《かみ》を、ふらりと掉《ふ》って、ぶらぶらと地《つち》へ吐き、立直ると胸を張って、これも白衣《びゃくえ》の上衣兜《うわかくし》から、綺麗《きれい》な手巾《ハンケチ》を出して、口のまわりを拭いて、ト恍惚《うっとり》とする。
「爽《さわや》かに清《すずし》き事、」
 と黄色い更紗《さらさ》の卓子掛《テエブルかけ》を、しなやかな指で弾《はじ》いて、
「何とも譬《たと》えようがありません。ただ一分間、一口含みまして、二三度、口中を漱《そそ》ぎますと、歯磨|楊枝《ようじ》を持ちまして、ものの三十分使いまするより、遥《はる》かに快くなるのであります。口中には限りません。精神の清く爽かになりますに従うて、頭痛などもたちどころに治ります。どうぞ、お試し下さい、口は禍《わざわい》の門《かど》、諸病は口からと申すではありませんか、歯は大事にして下さい、口は綺麗にして下さいまし、ねえ、私が願います、どうぞ諸君《みなさん》。」
「この砥石《といし》が一|挺《ちよう》ありましたらあ、今までのよに、盥《たらい》じゃあ、湯水じゃあとウ、騒ぐにはア及びませぬウ。お座敷のウ真中《まんなか》でもウ、お机、卓子台《ちゃぶだい》の上エでなりとウ、ただ、こいに遣って、すぅいすぅいと擦《こす》りますウばかりイイイ。菜切庖丁《なっきりぼうちょう》、刺身庖丁《さしみぼうちょう》ウ、向ウへ向ウへとウ、十一二度、十二三度、裏を返しまして、黒い色のウ細い砥ウ持《もち》イましてエ、柔《やわら》こう、すいと一二度ウ、二三度ウ、撫《なで》るウ撫るウばかりイ、このウ菜切庖丁が、面白いようにイ切《きれ》まあすウる、切れまあすウる。こいに、こいに、さッくりさッくり横紙が切れますようなら、当分のウ内イ、誰方様《どなたさま》のウお邸《やしき》でもウ、切《きれ》ものに御不自由はございませぬウ。このウ細《こまか》い方一挺がア、定価は五銭のウ処ウ、特別のウ割引イでエ、粗《あら》のと二ツ一所に、名倉《なぐら》の欠《かけ》を添えまして、三銭、三銭でエ差
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