遍《あまね》うしてしかしてそのいささかも脂《やに》が無い。私《わし》は痰持《たんもち》じゃが、」
と空咳《からせき》を三ツばかり、小さくして、竹の鞭を袖へ引込め、
「この煙草を用いてから、とんと悩みを忘れた。がじゃ、荒くとも脂がありとも、ただ強いのを望むという人には決してこの煙草は向かぬぞ。香味あって脂が無い、抵当流れの刻《きざみ》はどうじゃ。」
と太い声して、ちと充血した大きな瞳《ひとみ》をぎょろりと遣る。その風采《ふうさい》、高利を借りた覚えがあると、天窓《あまた》から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。
店の透いた時は、そこらの小児《こども》をつかまえて、
「あ、然《す》じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺《しわ》を寄せて、髯の上を撫《な》で下げ撫で下げ、滑稽《おど》けた話をして喜ばせる。その小父《おじ》さんが、
「いや、若いもの。」
という顔色《がんしょく》で、竹の鞭を、ト笏《しゃく》に取って、尖《さき》を握って捻向《ねじむ》きながら、帽子の下に暗い額で、髯の白いに、金が顕《あらわ》な北叟笑《ほくそえみ》。
附穂《つぎほ》なさに振返った技師は、これを知ってなお照れた。
「今に御覧《ごろう》じろ。」
と遠灯《とおび》の目《ま》ばたきをしながら、揃えた膝をむくむくと揺《ゆす》って、
「何て、寒いでしょう。おお寒い。」
と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ寄凭《よりかか》る、……体の重量《おもみ》が、他愛ない、暖簾《のれん》の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、半纏《はんてん》の上から触っても知れた。
げっそり懐手《ふところで》をしてちょいとも出さない、すらりと下った左の、その袖は、何も支えぬ、婦《おんな》は片手が無いのであった。
九
もうこの時分には、そちこちで、徐々《そろそろ》店を片附けはじめる。まだ九時ちっと廻ったばかりだけれども、師走の宵は、夏の頃の十二時過ぎより帰途《かえり》を急ぐ。
で、処々、張出しが除《と》れる、傘《からかさ》が窄《すぼ》まる、その上に冷《つめた》い星が光を放って、ふっふっと洋燈《ランプ》が消える。突張《つっぱ》りの白木《しらき》の柱が、すくすくと夜風に細って、積んだ棚が、がたがた崩れる。その中へ、炬燵《こたつ》が化けて歩行《ある》き出した体《てい》に、むっくりと、大きな風呂敷包を背負《しょ》った形が糶上《せりあが》る。消え残った灯《あかり》の前に、霜に焼けた脚が赤く見える。
中には荷車が迎《むかい》に来る、自転車を引出すのもある。年寄には孫、女房にはその亭主が、どの店にも一人二人、人数が殖《ふ》えるのは、よりよりに家から片附けに来る手伝、……とそればかりでは無い。思い思いに気の合ったのが、帰際《かえりぎわ》の世間話、景気の沙汰《さた》が主なるもので、
「相変らず不可《いけ》ますまい、そう云っちゃ失礼ですが。」
「いえ、思ったより、昨夜《ゆうべ》よりはちっと増《まし》ですよ。」
「また私《わたくし》どもと来た日にゃ、お話になりません。」
「御多分には漏れませんな。」
「もう休もうかと思いますがね、それでも出つけますとね、一晩でも何だか皆さんの顔を見ないじゃ気寂《きさみ》しくって寝られません。……無駄と知りながら出て来ます、へい、油費《あぶらづい》えでさ。」
と一処《ひとところ》に団《かた》まるから、どの店も敷物の色ばかりで、枯野に乾《ほ》した襁褓《むつき》の光景《ありさま》、七星の天暗くして、幹枝盤上《かんしはんじょう》に霜深し。
まだ突立《つった》ったままで、誰も人の立たぬ店の寂《さみ》しい灯先《ひさき》に、長煙草《ながぎせる》を、と横に取って細いぼろ切れを引掛《ひっか》けて、のろのろと取ったり引いたり、脂通《やにどお》しの針線《はりがね》に黒く畝《うね》って搦《から》むのが、かかる折から、歯磨屋《はみがきや》の木蛇の運動より凄《すご》いのであった。
時に、手遊屋《おもちゃや》の冷《ひやや》かに艶《えん》なのは、
「寒い。」と技師が寄凭《よりかか》って、片手の無いのに慄然《ぞっ》としたらしいその途端に、吹矢筒を密《そっ》と置いて、ただそれだけ使う、右の手を、すっと内懐《うちぶところ》へ入れると、繻子《しゅす》の帯がきりりと動いた。そのまま、茄子《なす》の挫《ひしゃ》げたような、褪《あ》せたが、紫色の小さな懐炉《かいろ》を取って、黙って衝《つ》と技師の胸に差出したのである。
寒くば貸そう、というのであろう。……
挙動《しぐさ》の唐突《だしぬけ》なその上に、またちらりと見た、緋鹿子《ひがのこ》の筒袖《つつッぽ》の細いへりが、無い方の腕の切口に、べとりと血が染《にじ》んだ時の状
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