》の三ツ目入道、どろどろどろと顕《あらわ》れけり
十三
樽を張子《はりこ》で、鼠色の大入道、金銀張分けの大の眼《まなこ》を、行燈|見越《みこし》に立《たち》はだかる、と縄からげの貧乏|徳利《どっくり》をぬいと突出す。
「丑満《うしみつ》の鐘を待兼ねたやい。……わりゃ雪女。」
とドス声で甲《かん》を殺す……この熊漢《くまおとこ》の前に、月からこぼれた白い兎《うさぎ》、天人の落し児といった風情の、一束《ひとつか》ねの、雪の膚《はだ》は、さては化夥間《ばけなかま》の雪女であった。
「これい、化粧が出来たら酌をしろ、ええ。」
と、どか胡坐《あぐら》、で、着ものの裾《すそ》が堆《うずたか》い。
その地響きが膚に応《こた》えて、震える状《さま》に、脇の下を窄《すぼ》めるから、雪女は横坐りに、
「あい、」と手を支《つ》く。
「そりゃ、」
と徳利を突出した、入道は懐から、鮑貝《あわびがい》を掴取《つかみと》って、胸を広く、腕へ引着け、雁《がん》の首を捻《ね》じるがごとく白鳥の口から注《つ》がせて、
「わりゃ、わなわなと震えるが、素膚《すはだ》に感じるか、いやさ、寒いか。」と、じろじろと視《みつ》めて寛々たり。
雪女細い声。
「はい……冷とうござんすわいな。」
「ふん、それはな、三途河《そうずか》の奪衣婆《だつえば》に衣《きもの》を剥《は》がれて、まだ間が無うて馴《な》れぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いと吐《ぬか》すと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が空腹《ひだる》いと云うようなものだ。汝《うぬ》が勝手の我ままだ。」
「情《なさけ》ない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。」
とやっぱり戦《わなな》く。その姿、あわれに寂しく、生々《なまなま》とした白魚の亡者に似ている。
「もっともな、わりゃ……」
言い掛けた時であった。この見越入道、ふと絶句で、大《おおき》な樽の面《つら》を振って、三つ目を六つに晃々《ぎらぎら》ときょろつかす。
幕の蔭と思う絵の裏で、誰とも知らず、静まった藤の房に、生温《なまぬる》い風の染む気勢《けはい》で、
「……紅蓮《ぐれん》、大紅蓮、紅蓮、大紅蓮……」と後見《うしろ》をつけたものがある。
「紅蓮、大紅蓮の地獄に来《きた》って、」
と大入道は樽の首を揺据《ゆりす》えた。
「わりゃ雪女となりおった。が、魔道の酌取《しゃくとり》、枕添《まくらぞい》、芸妓《げいしゃ》、遊女《じょろう》のかえ名と云うのだ。娑婆《しゃば》、人間の処女《きむすめ》で……」
また絶句して、うむと一つ、樽に呼吸《いき》を詰めて支《つか》えると、ポカンとした叩頭《おじぎ》をして、
「何だっけね、」
と可愛い声。
「お稲、」と雪女が小さく言った。
松崎は耳を澄ます。
と同時であった。
「……お稲、お稲さんですって、……」と目のふちに、薄く、行燈の青い影が射《さ》した。美しい女《ひと》は、ふと紳士を見た。
「お稲荷《いなり》、稲荷さんと云うんだね、白狐《しろぎつね》の化けた処なんだろう。」
わけもなくそう云って、紳士は、ぱっと巻莨《まきたばこ》に火を点ずる。
その火が狐火のように見えた。
「ああ、そうなのね。」
美しい女《ひと》は頷《うなず》いたのである。
松崎も、聞いて、成程そうらしくも見て取った。
「むむ、そのお稲で居た時の身の上話、酒の肴《さかな》に聞かさんかい。や、ただわなわなと震えくさる、まだ間が無うて馴れぬからだ。こりゃ、」
と肩へむずと手を掛けると、ひれ伏して、雪女は溶けるように潸然《さめざめ》と泣く。
十四
「陰気だ陰気だ、此奴《こいつ》滅入《めい》って気が浮かん、こりゃ、汝等《わいら》出て燥《はしゃ》げやい。」
三ツ目入道、懐手の袖を刎《は》ねて、飽貝《あわびっかい》の杯を、大《でか》く弧《こ》を描いて楽屋を招く。
これの合図に、相馬内裏《そうまだいり》古御所《ふるごしょ》の管絃。笛、太鼓に鉦《かね》を合わせて、トッピキ、ひゃら、ひゃら、テケレンどん、幕を煽《あお》って、どやどやと異類異形が踊って出《い》でた。
狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三疋、赤手拭、すッとこ被《かぶ》り、吉原かぶり、ちょと吹流し、と気取るも交って、猫じゃ猫じゃの拍子を合わせ、トコトンと筵《むしろ》を踏むと、塵埃《ちりほこり》立交る、舞台に赤黒い渦を巻いて、吹流しが腰をしゃなりと流すと、すッとこ被りが、ひょいと刎《は》ねる、と吉原被りは、ト招ぎの手附。
狸の面、と、狐の面は、差配の禿《はげ》と、青月代《あおさかやき》の仮髪《かつら》のまま、饂飩屋の半白頭《ごましおあたま》は、どっち付かず、鼬《いたち》のような面を着て、これが鉦で。
時々、きちきちきちきちという。狐はお定りのコンを鳴く。狸はあやふやに、モウと唸《うな》って、膝にのせた、腹鼓。
囃子に合わせて、猫が三疋、踊る、踊る、いや踊る事わ。
青い行燈とその前に突伏《つっぷ》した、雪女の島田のまわりを、ぐるりぐるりと廻るうちに、三ツ目入道も、ぬいと立って、のしのしと踊出す。
続いて囃方《はやしかた》惣踊《そうおど》り。フト合方が、がらりと替って、楽屋で三味線《さみせん》の音《ね》を入れた。
――必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな――
と揃って、異口同音《くちぐち》に呼ばわりながら、水車《みずぐるま》を舞込むごとく、次第びきに、ぐるぐるぐる。……幕へ衝《つ》と消える時は、何ものか居て、操りの糸を引手繰《ひったぐ》るように颯《さっ》と隠れた。
筵舞台に残ったのは、青行燈《あおあんどん》と雪女。
悄《しお》れて、一人、ただうなだれているのであった。
上なる黒い布は、ひらひらと重くなった……空は化物どもが惣踊りに踊る頃から、次第に黒くなったのである。
美しい女《ひと》は、はずして、膝の上に手首に掛けた、薄色のショオルを取って、撫肩の頸《うなじ》に掛けて身繕い。
此方《こなた》に松崎ももう立とうとした。
青月代が、ひょいと覗《のぞ》いた。幕の隙間へ頤《あご》を乗せて、
「誰か、おい、前掛《まえかけ》を貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。
「前掛を貸しておくれよ、……よう、誰でも。」
美しい女《ひと》から、七八人|小児《こども》を離れて、二人並んでいた子守の娘が、これを聞くと真先《まっさき》にあとじさりをした。言訳だけも赤い紐の前掛をしていたのは、その二人ぐらいなもので、……他は皆、横撫での袖とくいこぼしの膝、光るのはただ垢《あか》ばかり。
傍《かたわら》から、また饂飩屋が出て舞台へ立った。
「これから女形《おんながた》が演処《しどころ》なんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、活《い》きてる娘の役だもの。裸では不可《いけね》えや、前垂《まえだれ》を貸しとくれよ。誰か、」
「後生《ごしょう》だってば、」
と青月代も口を添える。
子守の娘はまた退《しさ》った。
幼い達は妙にてれて、舞台の前で、土をいじッて俯向《うつむ》いたのもあるし、ちょろちょろ町の方へ立つのもあった。
「吝《しみた》れだなあ。」
饂飩屋がチョッ、舌打する。
「貸してくれってんだぜ、……きっと返すッてえに。……可哀相《かわいそう》じゃないか、雪女になったなりで裸で居ら。この、お稲さんに着せるんだよ。」
と青月代も前へ出て、雪女の背筋のあたりを冷たそうに、ひたりと叩いた……
「前掛でなくては。不可《いけな》いの?」
美しい人はすッと立った。
紳士は仰向《あおむ》いて、妙な顔色《かおつき》。
松崎の、うっかり帰られなくなったのは言うまでもなかろう。
十五
「兄さん、他《ほか》のものじゃ間に合わない?」
あきれ顔な舞台の二人に、美しい女《ひと》は親しげにそう云った。
「他の物って、」と青月代は、ちょんぼり眉で目をぱちくる。
「羽織では。」
美しい女《ひと》は華奢《きゃしゃ》な手を衣紋《えもん》に当てた。
「羽織なら、ねえ、おい。」
「ああ、そんな旨《うめ》え事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。」
と饂飩屋は吐出すように云う。成程、羽織を着たものは、ものの欠片《かけら》も見えぬ。
「可《よ》ければ、私のを貸してあげるよ。」
美しい女《ひと》は、言《ことば》の下に羽織を脱いだ、手のしないは、白魚が柳を潜《くぐ》って、裏は篝火《かがりび》がちらめいた、雁《かり》がねむすびの紋と見た。
「品子《しなこ》さん、」
紳士は留めようとして、ずッと立つ。
「可《い》いのよ、貴方《あなた》。」
と見返りもしないで、
「帯がないじゃないか、さあ、これが可いわ。」と一所に肩を辷《すべ》った、その白と、薄紫と、山が霞んだような派手な羅《うすもの》のショオルを落してやる……
雪女は、早く心得て、ふわりとその羽織を着た、黒縮緬《くろちりめん》の紋着《もんつき》に緋《ひ》を襲《かさ》ねて、霞を腰に、前へすらりと結んだ姿は、あたかも可《よ》し、小児《こども》の丈に裾《すそ》を曳《ひ》いて、振袖長く、影も三尺、左右に水が垂れるばかり、その不思議な媚《なまめか》しさは、貸小袖に魂が入って立ったとも見えるし、行燈の灯《ともし》を覆《おお》うた裲襠《かけ》の袂《たもと》に、蝴蝶《ちょうちょう》が宿って、夢が※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよう》とも見える。
「難有《ありがと》う、」
「奥さん難有う。」
互に、青月代と饂飩屋が、仮髪《かつら》を叩いて喜び顔。
雪女の、その……擬《なぞら》えた……姿見に向って立つ後姿を、美しい女《ひと》は、と視《なが》めて、
「島田も可《い》いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯《しごき》を前帯じゃどう。遊女《おいらん》のようではなくって、」
「構わないの、お稲さんが寝衣《ねまき》の処だから、」
「ああ、ちょっと。」
と美しい女《ひと》が留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと引込《ひっこ》む。
「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」
と言う。紳士を顧みた美しい女《ひと》の睫《まつげ》が動いて、目瞼《まぶた》が屹《きっ》と引緊《ひきしま》った。
「何、稲荷《いなり》だよ、おい、稲荷だろう。」
紳士も並んで、見物の小児《こども》の上から、舞台へ中折《なかおれ》を覗《のぞ》かせた。
「ねえ、この人の名は?……」
黒縮緬の雪女は、さすが一座に立女形《たておやま》の見識を取ったか、島田の一さえ、端然《きちん》と済まして口を利こうとしないので、美しい女《ひと》はまた青月代に、そう訊《き》いた。
「嵐お萩ッてえの……東西々々。」
と飜然《ひらり》と隠れる。
「芸名《げいみょう》ではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」
と美しい女《ひと》は、やや急込《せきこ》んで言って、病身らしく胸を圧《おさ》えた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の嬌娜姿《やさすがた》、雲を出《い》でたる月かと視《み》れば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵に艶《つや》ある青柳《あおやぎ》の枝。
春の月の凄《すご》きまで、蒼青《まっさお》な、姿見の前に、立直って、
「お稲です。」
と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水に朧《おぼろ》なものではなかった。
十六
舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、――俳優《やくしゃ》は人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、俯向伏《うつむきふ》している間に、玉の曇《くもり》を拭《ぬぐ》ったらしい。……眉は鮮麗《あざやか》に、目はぱっちりと張《はり》を持って、口許《くちもと》の凜《りん》とした……やや強《きつ》いが、妙齢《としごろ》のふっくりとした、濃い生際《はえぎわ》に白粉《おしろい》
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