の際立たぬ、色白な娘のその顔。
 松崎は見て悚然《ぞっ》とした……
 名さえ――お稲です――
 肖《に》たとは迂哉《おろか》。今年|如月《きさらぎ》、紅梅に太陽《ひ》の白き朝、同じ町内、御殿町《ごてんまち》あたりのある家の門を、内端《うちわ》な、しめやかな葬式《とむらい》になって出た。……その日は霜が消えなかった――居周囲《いまわり》の細君女房連が、湯屋でも、髪結《かみゆい》でもまだ風説を絶《たや》さぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。
「私も今はじめて聞いて吃驚《びっくり》したの。」
 その時、松崎の女房は、二階へばたばたと駈上《かけあが》り、御注進と云う処を、鎧《よろい》が縞《しま》の半纏《はんてん》で、草摺《くさずり》短《みじか》な格子の前掛、ものが無常だけに、ト手は飜《ひるがえ》さず、すなわち尋常に黒繻子《くろじゅす》の襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……
 髪も櫛巻《くしまき》、透切《すきぎ》れのした繻子の帯、この段何とも致方《いたしかた》がない。亭主、号が春狐であるから、名だけは蘭菊《らんぎく》とでも奢《おご》っておけ。
 春狐は小机を横に、座蒲団《ざぶとん》から斜《ななめ》になって、
「へーい、ちっとも知らなかった。」
「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家《となり》の女房《かみ》さんが立って、通《とおり》の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式《ともらい》が出る所だって、他家《よそ》の娘《こ》でも最惜《いとし》くってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日《しばらく》姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの娘《こ》が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お覗《のぞ》きだっけがね。」
 苦笑いで、春狐子。
「余計な事を言いなさんな、……しかし惜《おし》いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」
「うっかり下町にだってあるもんですか。」
「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは讃《ほ》めない奴《やつ》さ、顔がちっと強《きつ》すぎる、何のってな。」
「ええ、それは廂髪《ひさしがみ》でお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつきたいようだったの。
 髮のいい事なんて、もっとも盛《さかり》も盛だけれども。」
「幾歳《いくつ》だ。」
「十九……明けてですよ。」
「ああ、」と思わず煙管《きせる》を落した。
「勿論、お婿さんは知らずらしいね。」
「ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。」
 はっと思い、
「や、自殺か。」
「おお吃驚《びっくり》した……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり同一《おんなじ》だわ、自殺をしたのも。」
「じゃどうしたんだよ。」
「それがだわね。」
「焦《じれ》ったい女だな。」
「ですから静《しずか》にお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ内証《ないしょ》に秘《かく》していたんだそうですけれど、あの娘《こ》はね、去年の夏ごろから――その事で――狂気《きちがい》になったんですって。」
「あの、綺麗な娘《こ》が。」
「まったくねえ。」
 と俯向《うつむ》いて、も一つ半纏の襟を合わせる。

       十七

「妙齢《としごろ》で、あの容色《きりょう》ですからね、もう前《ぜん》にから、いろいろ縁談もあったそうですけれど、お極《きま》りの長し短しでいた処、お稲ちゃんが二三年前まで上っていなすった……でも年二季の大温習《おおざらい》には高台へ出たんだそうです……長唄のお師匠さんの橋渡しで。
 家《うち》は千駄木辺で、お父さんは陸軍の大佐だか少将だか、それで非職《ひい》てるの。その息子さんが新しい法学士なんですって……そこからね、是非、お嫁さんに欲《ほし》いって言ったんですとさ。
 途中で、時々顔を見合って、もう見合いなんか済んでるの。男の方は大変な惚方《ほれかた》なのよ。もっとも家同士、知合いというんでも何でもないんですから、口を利いたことなんて、そりゃなかったんでしょうけれど、ほんに思えば思わるるとやらだわね。」
 半纏着の蘭菊は、指のさきで、火鉢の縁《ふち》へちょいと当って、
「お稲ちゃんの方でも、嬉しくない事はなかったんでしょう。……でね、内々その気だったんだって、……お師匠さんは云うんですとさ、――隣家《となり》の女房《かみ》さんの、これは談話《はなし》よ。」
 まだ卒業前ですから、お取極《とりき》めは、いずれ学校が済んでからッて事で、のびのびになっていたんだそうですがね。
 去年の春、お茶の水の試験が済むと、さあ、その翌日《あくるひ》にでも結納を取替わせる勢《いきおい》で、男の方から急込《せきこ》んで来たんでしょう。
 けれども、こっちぢゃ煮切《にえき》らない、というのがね――あの、娘《こ》にはお母《っか》さんがありません。お父さんというのは病身で、滅多に戸外《そと》へも出なさらない、何でも中気か何からしいんです――後家さんで、その妹さん、お稲ちゃんには叔母に当る、お婆さんのハイカラが取締って、あの娘《こ》の兄さん夫婦が、すっかり内の事を遣《や》っているんだわね。
 その兄さんというのが、何とか云う、朝鮮にも、満洲とか、台湾にも出店のある、大《おおき》な株式会社に、才子で勤めているんです。
 その何ですとさ、会社の重役の放蕩息子《どらむすこ》が、ダイヤの指輪で、春の歌留多《かるた》に、ニチャリと、お稲ちゃんの手を圧《おさ》えて、おお可厭《いや》だ。」
 と払う真似して、
「それで、落第、もう沢山。」
「どうだか。」
「ほんとうですとも。それからそのニチャリが、」
「右のな、」
 と春狐は、ああと歎息する。
「ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これには嫂《あによめ》が一はながけに乗ったでしょう。」
「極《きま》りでいやあがる。」
「大分、お芝居になって来たわね。」
「余計な事を言わないで……それから、」
「兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという談話《はなし》の時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって――無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。」
「その法学士の方をだな、――無い御縁が凄《すさま》じいや、てめえが勝手に人の縁を、頤《あご》にしゃぼん玉の泡沫《あぶく》を塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でに粧《めけ》やあがる西洋|剃刀《かみそり》で切ったんじゃないか。」
「ねえ……鬱《ふさ》いでいましたとさ、お稲ちゃんは、初心《うぶ》だし、世間見ずだから、口へ出しては何にも言わなかったそうだけれど……段々、御飯が少くなってね、好《すき》なものもちっとも食べない。
 その癖、身じまいをする事ったら、髪も朝に夕に撫でつけて、鬢《びん》の毛一筋こぼしていた事はない。肌着も毎日のように取替えて、欠かさずに湯に入って、綺麗にお化粧をして、寝る時はきっと寝白粧《ねおしろい》をしたんですって。
 皓歯《しらは》に紅《べに》よ、凄《すご》いようじゃない事、夜が更けた、色艶《いろつや》は。
 そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんと〆《し》めるのを――お稲や、何をおしだって、叔母さんが咎《とが》めた時、――私はお母《っか》さんの許《とこ》へ行くの――
 そう云ってね、枕許《まくらもと》へちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、現《うつつ》で正体がないんですとさ。
 思詰《おもいつ》めたものだわねえ。」

       十八

「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に密《そっ》と箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けたんですよ。」
「法学士の見合いの写真?……」
「いいえ、そんなら可《い》いけれど、短刀を密《そっ》と持ったの、お母さんの守護刀《まもりがたな》だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢《としごろ》で可愛い中にも品の可《よ》かった事を御覧なさい。」
「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」
「あれ、」
 と見向く、と朱鷺色《ときいろ》に白の透《すか》しの乙女椿《おとめつばき》がほつりと一輪。
 熟《じっ》と視《み》たが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるよう掌《てのひら》に据えて俯向《うつむ》いた。
 隙間もる冷い風。
「ああ、四辻がざわざわする、お葬式《ともらい》が行くんですよ。」
 と前掛の片膝、障子へ片手。
「二階の欄干《てすり》から見る奴《やつ》があるものか。見送るなら門《かど》へお出な。」
「止《よ》しましょう、おもいの種だから……」
 と胸を抱いて、
「この一輪は蔭ながら、お手向《たむ》けになったわね。」と、鼻紙へ密《そっ》と置くと、冷い風に淡い紅《くれない》……女心はかくやらむ。
 窓の障子に薄日が映《さ》した。
「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」
「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ蔵《しま》って、錠《じょう》をおろして、兄さんがその鍵《かぎ》を握って寝たんだっていうんですもの。」
「ははあ、重役の忰《せがれ》に奉って、手繰りつく出世の蔓《つる》、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」
「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お在《いで》だったかと思うと、そうじゃないの……精々《せっせ》裁縫《おしごと》をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗《ひのし》を掛けて、ちゃんと蔵《しま》って、それなり手を通さないでも、ものの十日も経《た》つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児《あかんぼ》のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」
「おやおや、兄の嬰児《あかんぼ》の洗濯かね。」
「嫂《あによめ》というのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんの傍《そば》へは寄附《よッつ》けもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、――どういう了簡《りょうけん》ですかね、兄さんが容色《きりょう》望みで娶《と》ったっていうんですから……
 小児《こども》は二人あるし、家《うち》は大勢だし、小体《こてい》に暮していて、別に女中っても居ないんですもの、お守《も》りから何から、皆《みんな》、お稲ちゃんがしたんだわ。」
「ははあ、その児だ……」
 ともすると、――それが夕暮が多かった――嬰児《あかんぼ》を背負《おぶ》って、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、清《すずし》い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、蝙蝠《こうもり》も柳も無しに、何を見るともなく、熟《じっ》と暮れかかる向側《むこうがわ》の屋根を視《なが》めて、其家《そこ》の門口《かどぐち》に彳《たたず》んだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。
 面影は、その時の見覚えで。
 出窓の硝子越《がらすごし》に、娘の方が往《ゆき》かえりの節などは、一体|傍目《わきめ》も触《ふ》らないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと歩行《ある》く振《ふり》、打水にも褄《つま》のなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。
 が、思い当る……葬式《とむらい》の出たあとでも、お稲はその身の亡骸《なきがら》の、白い柩《ひつぎ》で行《ゆ》く状《さま》を、あの、門《かど》に一人立って、さも恍惚《うっとり》と見送っているらしかった。

       十九

 女房は語《かたり》続けた―
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング