切りフイと居なくなった。……
いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。
十
「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」
少々舞台に間が明いて、魅《つま》まれたなりの饂飩小僧《うどんこぞう》は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。
幕の端《はじ》から、以前の青月代《あおさかやき》が、黒坊《くろんぼ》の気か、俯向《うつむ》けに仮髪《かつら》ばかりを覗《のぞ》かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも視《なが》められる。
「まだじゃねえか、まだお前、その行燈《あんどん》がかがみにならねえよ……科《しぐさ》が抜けてるぜ、早く演《や》んねえな。」
と云って、すぽりと引込《ひっこ》む。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹《でこぼこ》する蹈台《ふみだい》の腰を乗出す。
同じ思いか、面影《おもかげ》も映しそうに、美しい女《ひと》は凝《じっ》と視《み》た。ひとり紳士は気の無い顔して、反身《そりみ》ながらぐったりと凭掛《よりかか》った、杖《ステッキ》の柄を手袋の尖で突いたものなり。
饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと挨拶《あいさつ》する。
「光栄《おいで》なさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の玄徳稲荷《げんとくいなり》様は、御身分柄、こんな悪戯《いたずら》はなさりません。狸か獺《かわうそ》でござりましょう。迷児の迷児の、――と鉦《かね》を敲《たた》いて来やがって饂飩を八杯|攫《さ》らいました……お前さん。」
と滑稽《おどけ》た眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと饒舌《しゃべ》ったが、
「や、一言《いちごん》も、お返事なしだね、黙然坊《だんまりぼう》様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら――私《わし》の顔だ――道理で、兄弟分だと頼母《たのも》しかったに……宙に流れる川はなし――七夕《たなばた》様でもないものが、銀河《あまのがわ》には映るまい。星も隠れた、真暗《まっくら》、」
と仰向《あおむ》けに、空を視《み》る、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀|越《ごし》、幕の内か潜《くぐ》らして、両方を竹で張った、真黒《まっくろ》な布の一張《ひとはり》、筵《むしろ》の上へ、ふわりと投げて颯《さっ》と拡げた。
と見て、知りつつ松崎は、俄然《がぜん》として雲が湧《わ》いたか、とぎょっとした、――電車はあっても――本郷から遠路《とおみち》を掛けた当日。麗《うららか》さも長閑《のどか》さも、余り積《つも》って身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない俄雨《にわかあめ》を憂慮《きづかわ》ぬではなかった処。
彼方《むこう》の新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路|遥《はる》かな思いがある。
また、余所《よそ》は知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋の裡《うち》には、本所の空一面に漲《みなぎ》らす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。
暗い舞台で、小さな、そして爺様《じいさま》の饂飩屋は、おっかな、吃驚《びっくり》、わなわな大袈裟《おおげさ》に震えながら、
「何に映る……私《わし》が顔だ、――行燈《あんどん》か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上|手前《てめえ》に口を利かれては叶《かな》わねえ。何分頼むよ。……面《つら》の皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持って遁《に》げる何十年|以来《このかた》の古馴染《ふるなじみ》だ。
馴染がいに口を利くなよ、私《わし》が呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」
……と背の低いのが、滅入込《めりこ》みそうに、大《おおき》な仮髪《かつら》の頸《うなじ》を窘《すく》め、ひッつりそうな拳《こぶし》を二つ、耳の処へ威《おど》すがごとく、張肱《はりひじ》に、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。
で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、
「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」
と熟《じっ》と覗《のぞ》く。
途端に、沈んだが、通る声で、
「私……行燈だよ。」
「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を飛退《とびの》く。
十一
この古行燈が、仇《あだ》も情《なさけ》も、赤くこぼれた丁子《ちょうじ》のごとく、煤《すす》の中に色を籠《こ》めて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。
饂飩屋は吃驚《びっくり》の呼吸を引いて、きょとんとしたが
「俺《おいら》あ可厭《いや》だぜ。」と押殺した低声《こごえ》で独言《ひとりごと》を云ったと思うと、ばさりと幕摺《まくず》れに、ふらついて、隅から蹌踉《よろ》け込んで見えなくなった。
時に――私……行燈だよ、――と云ったのは、美しい女《ひと》である事に、松崎も心附いて、――驚いて楽屋へ遁《に》げた小児《こども》の状《さま》の可笑《おかし》さに、莞爾《にっこり》、笑《えみ》を含んだ、燃ゆるがごときその女《ひと》の唇を見た。
「つい言ッちまったのよ。」
と紳士を見向く。
「困った人だね、」
と杖《ステッキ》を取って、立構えをしながら、
「さあ、行こうか。」
「可《い》いわ、もうちっと……」
「恐怖《こわ》いよう。」
と子守の袂《たもと》にぶら下った小さな児が袖を引張《ひっぱ》って言う。
「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守は背《せな》の子を揺《ゆす》り上げた。
舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げて皆《みんな》笑った……小さいのが二側《ふたかわ》三側《みかわ》、ぐるりと黒く塊《かたま》ったのが、変にここまで間を措《お》いて、思出したように、遁込《にげこ》んだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。
「東西、東西。」
青月代《あおさかやき》が、例の色身《いろみ》に白い、膨《ふっく》りした童顔《わらわがお》を真正面《まっしょうめん》に舞台に出て、猫が耳を撫《な》でる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その一小間《ひとこま》が藍《あい》を濃く真青《まっさお》に塗ってあった。
行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上を蔽《おお》うた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しい女《ひと》と向合《むきあわ》せに据えたので、雪なす面《おもて》に影を投げて、媚《なまめ》かしくも凄《すご》くも見える。
青月代は飜然《ひらり》と潜《くぐ》った。
それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものが顕《あらわ》れる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵に描《か》いた、小松葺《こまつたけ》、大きな蛤《はまぐり》十ばかり一所に転げて出そうであったが。
舞台に姿見の蒼《あお》い時よ。
はじめて、白玉のごとき姿を顕す……一|人《にん》の立女形《たておやま》、撫肩しなりと脛《はぎ》をしめつつ褄《つま》を取った状《さま》に、内端《うちわ》に可愛《かわい》らしい足を運んで出た。糸も掛けない素の白身《はくしん》、雪の練糸《ねりいと》を繰るように、しなやかなものである。
背丈|恰好《かっこう》、それも十一二の男の児が、文金高髷の仮髪《かつら》して、含羞《はにかん》だか、それとも芝居の筋の襯染《したじめ》のためか、胸を啣《くわ》える俯向《うつむ》き加減、前髪の冷たさが、身に染む風情に、すべすべと白い肩をすくめて、乳を隠す嬌態《しな》らしい、片手柔い肱《ひじ》を外に、指を反らして、ひたりと附けた、その頤《おとがい》のあたりを蔽《おお》い、額も見せないで、なよなよと筵《むしろ》に雪の踵《かかと》を散らして、静《しずか》に、行燈の紙の青い前。
十二
綿かと思う柔《やわらか》な背を見物へ背後《うしろ》むきに、その擬《こしら》えし姿見に向って、筵に坐ると、しなった、細い線を、左の白脛《しらはぎ》に引いて片膝を立てた。
この膝は、松崎の方へ向く。右の掻込《かっこ》んで、その腰を据えた方に、美しい女《ひと》と紳士の縁台がある。
まだ顔を見せないで、打向った青行燈の抽斗《ひきだし》を抜くと、そこに小道具の支度があった……白粉刷毛《おしろいばけ》の、夢の覚際《さめぎわ》の合歓《ねむ》の花、ほんのりとあるのを取って、媚《なまめ》かしく化粧をし出す。
知ってはいても、それが男の児とは思われない。耳朶《みみたぼ》に黒子《ほくろ》も見えぬ、滑《なめら》かな美しさ。松崎は、むざと集《たか》って血を吸うのが傷《いたま》しさに、蹈台《ふみだい》の蚊《か》をしきりに気にした
蹈台の蚊は、おかしいけれども、はじめ腰掛けた時から、間を措《お》いては、ぶんと一つ、ぶんとまた一つ、穴から唸《うな》って出る……足と足を摺合《すりあ》わせたり、頭《かぶり》を掉《ふ》ったり、避《よ》けつ払いつしていたが、日脚の加減か、この折から、ぶくぶくと溝《どぶ》から泡の噴く体《てい》に数を増した。
人情、なぜか、筵の上のその皓体《こうたい》に集《たか》らせたくないので、背後《うしろ》へ、町へ、両の袂を叩いて払った。
そして、この血に餓《う》えて呻《うめ》く虫の、次第に勢《いきおい》を加えたにつけても、天気模様の憂慮《きづかわ》しさに、居ながら見渡されるだけの空を覗《のぞ》いたが、どこのか煙筒《えんとつ》の煙の、一方に雪崩《なだ》れたらしい隈《くま》はあったが、黒しと怪《あやし》む雲はなかった。ただ、町の静《しずか》さ。板の間の乾《から》びた、人なき、広い湯殿のようで、暖い霞の輝いて淀《よど》んで、漾《ただよ》い且つ漲《みなぎ》る中に、蚊を思うと、その形、むらむら波を泳ぐ海月《くらげ》に似て、槊《ほこ》を横《よこた》えて、餓えたる虎の唄を唄って刎《は》ねる。……
この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の牡丹《ぼたん》も曇ろう。……嘴《はし》を鳴らして、ひらりひらりと縦横無尽に踊る。
が、現《うつつ》なの光景《ありさま》は、長閑《のどか》な日中《ひなか》の、それが極度であった。――
やがて、蚊ばかりではない、舞台で狐やら狸やら、太鼓を敲《たた》き笛を吹く……本所名代の楽器に合わせて、猫が三疋。小夜具《こよぎ》を被《かぶ》って、仁王|立《だち》、一斗|樽《だる》の三ツ目入道、裸の小児《こども》と一所になって、さす手の扇、ひく手の手拭、揃って人も無げに踊出《おどりいだ》した頃は、俄雨《にわかあめ》を運ぶ機関車のごとき黒雲が、音もしないで、浮世の破《やぶれ》めを切張《きりばり》の、木賃宿の数の行燈、薄暗いまで屋根を圧して、むくむくと、両国橋から本所の空を渡ったのである。
次第は前後した。
これより前《さき》、姿見に向った裸の児が、濃い化粧で、襟白粉《えりおしろい》を襟長く、くッきりと粧《よそお》うと、カタンと言わして、刷毛《はけ》と一所に、白粉を行燈の抽斗《ひきだし》に蔵《しま》った時、しなりとした、立膝のままで、見物へ、ひょいと顔を見せたと思え。
島田ばかりが房々《ふさふさ》と、やあ、目も鼻も無い、のっぺらぼう。
唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅、蕊《しべ》白く莞爾《にっこり》した。
はっと美しい女《ひと》は身を引いて、肩を摺《ず》った羽織の手先を白々と紳士の膝へ。
額も頬も一分、三分、小鼻も隠れたまで、いや塗ったとこそ言え。白粉で消した顔とは思うが、松崎さえ一目見ると変な気がした。
そこへ、件《くだん
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