時に、紙屑屋の方が、武士《さむらい》よりは、もの馴《な》れた。
そして、跪《ひざまず》かせて、屑屋も地《つち》に、並んで恭《うやうや》しく手を支《つ》いた。
「江戸へ帰りますものにござります。山道に迷ひました。お通しを願ひたう存じます。」
ひつそりして、少時《しばらく》すると、
「お通り。」
と、もの柔《やわらか》な、優しい声。
颯《さっ》と幕が消えた。消《き》ゆるにつれて、朦朧《もうろう》として、白小袖《しろこそで》、紅《くれない》の袴《はかま》、また綾錦《あやにしき》、振袖《ふりそで》の、貴女たち四五人の姿とともに、中に一人、雪に紛《まが》ふ、うつくしき裸体の女があつたと思ふと、都鳥が一羽、瑪瑙《めのう》の如き大巌《おおいわ》に湛《たた》へた温泉《いでゆ》に白く浮いて居た。が、それも湯気とともに蒼《あお》く消えた。
星ばかり、峰ばかり、颯々《さっさつ》たる松の嵐の声ばかり。
幽《かすか》に、互《たがい》の顔の見えた時、真空《まそら》なる、山かづら、山の端《は》に、朗《ほがらか》な女の声して、
「矢は返すよ。」
風を切つて、目さきへ落ちる、此が刺さると生命《いのち》はなかつた。それでも武士《さむらい》は腰を抜いた。
引立《ひきた》てても、目ばかり働いて歩行《ある》き得ない。
屑屋が妙なことをはじめた。
「お武家様、此の笊《ざる》へお入んなせい。」
入《い》れると、まだ天狗《てんぐ》のいきの、ほとぼりが消えなかつたと見えて、鉄砲笊《てっぽうざる》へ、腰からすつぽりと納《おさま》つたのである。
屑屋が腰を切つて、肩を振つて、其の笊を背負《しょ》つて立つた。
「屑《くず》い。」
うつかりと、……
「屑い。」
落ちた矢を見ると、ひよいと、竹の箸《はし》ではさんで拾つて、癖に成つて居るから、笊へ抛《ほう》る。
鴻《こう》の羽《はね》の矢を額《ひたい》に取つて、蒼《あお》い顔して、頂きながら、武士《さむらい》は震へて居た。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
1922(大正11)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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