あし》にぬつと立つ、此の大《だい》なる魔神《ましん》の裾《すそ》に、小さくなつて、屑屋は頭から領伏《ひれふ》して手を合せて拝んだ。
「お慈悲《じひ》、お慈悲でござります、お助け下さいまし。」
「これ、身は損《そこ》なはぬ。ほね休めに、京見物をさして遣《や》るのぢや。」
「女房、女房がござります。児《こ》がござります。――何として、箱根から京まで宙が飛べませう。江戸へ帰りたう存じます。……お武家様、助けて下せえ……」
と膝行《いざ》り寄る。半《なか》ば夢心地の屑屋は、前後の事を知らぬのであるから、武士《さむらい》を視《み》て、其の剣術に縋《すが》つても助かりたいと思つたのである。
小法師《こほうし》が笑ひながら、塵《ちり》を払つて立つた。
「可厭《いや》なものは連れては参らぬ。いや、お行者《ぎょうじゃ》御覧の通りだ。御苦労には及ぶまい。――屑屋、法衣《ころも》の袖《そで》を取れ、確《しか》と取れ、江戸へ帰すぞ。」
「えゝ、滅相《めっそう》な、お慈悲、慈悲でござります。山を越えて参ります。歩行《ある》いて帰ります。」
「歩行《ある》けるかな。」
「這《は》ひます、這ひます、這ひまして帰ります。地《つち》を這ひまして帰ります。其の方が、どれほどお情《なさけ》か分りませぬ。」
「はゝ、気まゝにするが可《よ》い、――然《さ》らば入交《いれかわ》つて、……武士《さむらい》、武士《さむらい》、愚僧に縋《すが》れ。」
「恐れながら、恐れながら拙者《せっしゃ》とても、片時《へんし》も早く、もとの人間に成りまして、人間らしく、相成《あいな》りたう存じます。峠《とうげ》を越えて戻ります。」
「心のまゝぢや。――御坊。」
と山伏《やまぶし》が式代《しきたい》した。
「お行者。」
「少時《しばらく》、少時《しばらく》何《ど》うぞ。」
と蹲《うずくま》りながら、手を挙げて、
「唯今《ただいま》、思ひつきました。此には海内《かいだい》第一のお関所がござります。拙者|券《てがた》を持ちませぬ。夜あけを待ちましても同じ儀ゆゑに……ハタと当惑を仕《つかまつ》ります。」
武士《さむらい》はきつぱり正気に返つた。
「仔細ない。久能山辺《くのうざんあたり》に於ては、森の中から、時々、(興津鯛《おきつだい》が食べたい、燈籠《とうろう》の油がこぼれるぞよ。)なぞと声の聞える事を、此辺《こんあたり》でもまざ/\と信じて居《お》る。――関所に立向《たちむか》つて、大音《だいおん》に(権現《ごんげん》が通る。)と呼ばはれ、速《すみやか》に門を開《ひら》く。」
「恐れ……恐多《おそれおお》い事――承《うけたまわ》りまするも恐多い。陪臣《ばいしん》の分《ぶん》を仕《つかまつ》つて、御先祖様お名をかたります如き、血反吐《ちへど》を吐《は》いて即死をします。」
と、わな/\と震へて云つた。
「臆病もの。……可《よ》し。」
「計《はか》らひ取らせう。」
同音《どうおん》に、
「関所!」
と呼ぶと、向うから歩行《ある》くやうに、する/\と真夜中の箱根の関所が、霧を被《かず》いて出て来た。
山伏《やまぶし》の首が、高く、鎖《とざ》した門を、上から俯向《うつむ》いて見込む時、小法師《こほうし》の姿は、ひよいと飛んで、棟木《むなぎ》に蹲《しゃが》んだ。
「権現《ごんげん》ぢや。」
「罷通《まかりとお》るぞ!」
哄《どっ》と笑つた。
小法師の姿は東《あずま》の空へ、星の中に法衣《ころも》の袖《そで》を掻込《かいこ》んで、うつむいて、すつと立つ、早走《はやばしり》と云つたのが、身動きもしないやうに、次第々々に高く上《あが》る。山伏の形は、腹這《はらば》ふ状《さま》に、金剛杖《こんごうづえ》を櫂《かい》にして、横に霧を漕《こ》ぐ如く、西へふは/\、くるりと廻つて、ふは/\と漂ひ去る。……
唯《と》、仰いで見るうちに、数十人の番士《ばんし》、足軽《あしがる》の左右に平伏《ひれふ》す関の中を、二人何の苦もなく、うかうかと通り抜けた。
「お武家様、もし、お武家様。」
ハツとしたやうに、此の時、刀の柄《つか》に手を掛けて、もの/\しく見返つた。が、汚《きたな》い屑屋に可厭《いや》な顔して、
「何だ。」
「お袂《たもと》に縋《すが》りませいでは、一足《ひとあし》も歩行《ある》かれませぬ。」
「ちよつ。参れ。」
「お武家様、お武家様。」
「黙つて参れよ。」
小湧谷《こわくだに》、大地獄《おおじごく》の音を暗中《あんちゅう》に聞いた。
目の前の路《みち》に、霧が横に広いのではない。するりと無紋《むもん》の幕が垂れて、ゆるく絞つた総《ふさ》の紫《むらさき》は、地《ち》を透《す》く内側の燈《ともしび》の影に、色も見えつつ、ほのかに人声《ひとごえ》が漏《も》れて聞えた。
女の声である。
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