《きん》一円を抛《なげう》たむと言いあえりき、一夕《いっせき》お通は例の如く野田山に墓参して、家に帰れば日は暮れつ。火を点じて後、窓を展《ひら》きて屋外の蓮池《れんち》を背《せな》にし、涼を取りつつ机に向《むか》いて、亡き母の供養のために法華経《ほけきょう》ぞ写したる。その傍《かたわら》に老媼ありて、頻《しきり》に針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを徘徊《はいかい》したりけむ、ふと今ここに来《きた》れるが、早くもお通の姿を見て、眼《まなこ》を細め舌なめずりし、恍惚《こうこつ》たるもの久しかりし、乞食僧は美人臭しとでも思えるやらむ、むくむく鼻を蠢《うごめ》かし漸次《しだい》に顔を近附けたる、面《つら》が格子を覗《のぞ》くとともに、鼻は遠慮なく内へ入《い》りて、お通の頬《ほお》を掠《かす》めむとせり。
珍客《ちんかく》に驚きて、お通はあれと身を退《の》きしが、事の余りに滑稽《こっけい》なるにぞ、老婆も叱言《こごと》いう遑《いとま》なく、同時に吻々《ほほ》と吹き出しける。
蝦蟇法師は※[#「りっしんべん+呉」、第3水準1−84−50]《あやま》りて、歓心を購《あがな》えりとや思いけむ、悦気《えつき》満面に満ち溢《あふ》れて、うな、うな、と笑いつつ、頻《しき》りにものを言い懸けたり。
お通はかねて忌嫌《いみきら》える鼻がものいうことなれば、冷然として見も返らず。老媼は更に取合ねど、鼻はなおもずうずうしく、役にも立たぬことばかり句切もなさで饒舌《しゃべり》散《ち》らす。その懊悩《うるさ》さに堪えざれば、手を以て去れと命ずれど、いっかな鼻は引込《ひっこ》まさぬより、老媼はじれてやっきとなり、手にしたる針の尖《さき》を鼻の天窓《あたま》に突立てぬ。
あわれ乞食僧は留《とどめ》を刺されて、「痛し。」と身体《からだ》を反返《そりかえ》り、涎《よだれ》をなすりて逸物《いちもつ》を撫廻《なでまわ》し撫廻し、ほうほうの体《てい》にて遁出《にげいだ》しつ。走り去ること一町ばかり、俄然《がぜん》留《とどま》り振返り、蓮池を一つ隔てたる、燈火《ともしび》の影を屹《きっ》と見し、眼《まなこ》の色はただならで、怨毒《えんどく》を以て満たされたり。その時乞食僧は杖《つえ》を掉上《ふりあ》げ、「手段のいかんをさえ問わざれば何の望《のぞみ》か達せざらむ。」
かくは断乎《だんこ》として言放ち、大地をひしと打敲《うちたた》きつ、首を縮め、杖をつき、徐《おもむ》ろに歩を回《めぐ》らしける。
その背後《うしろ》より抜足差足、密《ひそか》に後をつけて行《ゆ》く一人《いちにん》の老媼あり。これかのお通の召使が、未《いま》だ何人《なんぴと》も知り得ざる蝦蟇法師の居所を探りて、納涼台《すずみだい》が賭物《かけもの》したる、若干の金子《きんす》を得むと、お通の制《とど》むるをも肯《き》かずして、そこに追及したりしなり。呼吸《いき》を殺して従い行《ゆ》くに、阿房《あほう》はさりとも知らざる状《さま》にて、殆《ほとん》ど足を曳摺《ひきず》る如く杖に縋《すが》りて歩行《あゆ》み行《ゆ》けり。
人里を出離《いではな》れつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮峻《けんしゅん》なる絶壁にて、勾配《こうばい》の急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点綴《てんてつ》せる山間の谷なれば、緑樹|長《とこしえ》に陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の洞穴《どうけつ》にこそかの摩利支天は祀《まつ》られたれ。
遥《はる》かに瞰下《みおろ》す幽谷は、白日闇《はくじつあん》の別境にて、夜昼なしに靄《もや》を籠《こ》め、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、啾々《しゅうしゅう》たる鬼気人を襲う、その物凄《ものすご》さ謂《い》わむ方なし。
まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑魅魍魎《ちみもうりょう》隊をなして、前途に塞《ふさが》るとも覚しきに、慾《よく》にも一歩を移し得で、あわれ立竦《たちすくみ》になりける時、二点の蛍光|此方《こなた》を見向き、一喝して、「何者ぞ。」掉冠《ふりかむ》れる蝦蟇法師の杖の下《もと》に老媼は阿呀《あわや》と蹲踞《うずくま》りぬ。
蝦蟇法師は流眄《しりめ》に懸け、「へ、へ、へ、うむ正に此奴《こやつ》なり、予が顔を傷附けたる、大胆者、讐返《しかえし》ということのあるを知らずして」傲然《ごうぜん》としてせせら笑う。
これを聞くより老媼はぞっと心臓まで寒くなりて、全体|氷柱《つらら》に化したる如く、いと哀れなる声を発して、「命ばかりはお助けあれ。」とがたがた震えていたりける。
四
さるほどに蝦蟇法師《がまほうし》はあくまで老媼《おうな》の胆《きも》を奪いて、
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