払い、去年《こぞ》よりここに移りたるなり。もとより巨額の公債を有し、衣食に事欠かざれば、花車《かしゃ》風流に日を送りて、何の不足もあらざる身なるに、月の如くその顔《かんばせ》は一片の雲に蔽《おお》われて晴るることなし。これ母親の死を悲《かなし》み別離《わかれ》に泣きし涙の今なお双頬《そうきょう》に懸《かか》れるを光陰の手も拭《ぬぐ》い去るあたわざるなりけり。
 読書、弾琴、月雪花、それらのものは一つとして憂愁を癒《いや》すに足らず、転《うた》た懐旧の媒《なかだち》となりぬ。ただ野田山の墳墓を掃《はら》いて、母上と呼びながら土に縋《すが》りて泣き伏すをば、此上無《こよな》き娯楽《たのしみ》として、お通は日課の如く参詣《さんけい》せり。
 七月の十五日は殊に魂祭《たままつり》の当日なれば、夕涼《ゆうすずみ》より家を出でて独り彼処《かしこ》に赴きけり。
 野田山に墓は多けれど詣来《もうでく》る者いと少なく墓|守《も》る法師もあらざれば、雑草|生茂《おいしげ》りて卒塔婆《そとば》倒れ断塚壊墳《だんちょうかいふん》[#「壊墳」は底本では「懐墳」]算を乱して、満目|転《うた》た荒涼たり。
 いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を灌《そそ》ぎ、花を手向けて香を燻《くん》じ、いますが如く斉眉《かしず》きて一時余《いっときあまり》も物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。
 急足《いそぎあし》に黒壁さして立戻る、十|間《けん》ばかり間《あい》を置きて、背後《うしろ》よりぬき足さし足、密《ひそか》に歩を運ぶはかの乞食僧なり。渠《かれ》がお通のあとを追うは殆《ほとん》ど旬日前《じゅんじつぜん》よりにして、美人が外出をなすに逢《お》うては、影の形に添う如く絶えずそこここ附絡《つきまと》うを、お通は知らねど見たる者あり。この夕《ゆうべ》もまた美人をその家まで送り届けし後、杉の根の外《おもて》に佇《たたず》みて、例の如く鼻に杖《つえ》をつきて休らいたり。
 時に一縷《いちる》の暗香《あんこう》ありて、垣の内より洩《も》れけるにぞ法師は鼻を蠢《うご》めかして、密に裡《うち》を差覗《さしのぞ》けば、美人は行水を使いしやらむ、浴衣涼しく引絡《ひきまと》い、人目のあらぬ処なれば、巻帯姿《まきおびすがた》繕わで端居《はしい》したる、胸のあたりの真白きに腰の紅《くれない》照添いて、眩《まばゆ》きばかり美《うる》わしきを、蝦蟇法師は左瞻右視《とみこうみ》、或《あるい》は手を掉《ふ》り、足を爪立《つまだ》て、操人形が動くが如き奇異なる身振《みぶり》をしたりとせよ、何思いけむ踵《くびす》を返し、更に迂回《うかい》して柴折戸《しおりど》のある方《かた》に行《ゆ》き、言葉より先に笑懸けて、「暖き飯一|膳《ぜん》与えたまえ、」と巨《おおい》なる鼻を庭前《にわさき》へ差出しぬ。
 未《いま》だ乞食僧を知らざる者の、かかる時不意にこの鼻に出会いなば少なくとも絶叫すべし、美人はすでに渠《かれ》を知れり。且つその狂か、痴《ち》か、いずれ常識無き阿房《あほう》なるを聞きたれば、驚ける気色も無くて、行水に乱鬢《みだれびん》の毛を鏡に対して撫附《なでつ》けいたりけり。
 蝦蟇法師はためつすがめつ、さも審《いぶ》かしげに鼻を傾けお通が為《な》せる業《わざ》を視《なが》めたるが、おかしげなる声を発し、「それは」と美人の手にしたる鏡を指して尋ねたり。妙なることを聞く者よとお通はわずかに見返りて、「鏡」とばかり答えたり。阿房はなおも推返《おしかえ》して、「何《なん》の用にするぞ」と問いぬ。「姿を映して見るものなり、御僧《おんそう》も鼻を映して見たまえかし。」といいさま鏡を差向けつ。蝦蟇法師は飛退《とびすさ》りて、さも恐れたる風情にて鼻を飛ばして遁去《にげさ》りける。
 これを語り次ぎ伝え聞きて黒壁の人々は明《あきら》かに蝦蟇法師の価値を解したり。なお且つ、渠等《かれら》は乞食僧のお通に対して馬鹿々々しき思いを運ぶを知りたれば、いよいよその阿房なることを確めぬ。
 さりながら鏡を示されし時乞食僧は逃げ去りつつ人知れず左記の数言を呟《つぶや》きたり。
「予は自ら誓えり、世を終るまで鏡を見じと、然《しか》り断じて鏡を見まじ。否これを見ざるのみならず、今|思出《おもいいだ》したる鏡という品《もの》の名さえ、務めて忘れねばならぬなり。」

       三

 蝦蟇法師《がまほうし》がお通に意あるが如き素振《そぶり》を認めたる連中は、これをお通が召使の老媼《おうな》に語りて、且つ戯《たわぶ》れ、且つ戒めぬ。
 毎夕|納涼台《すずみだい》に集る輩《やから》は、喋々《ちょうちょう》しく蝦蟇法師の噂《うわさ》をなして、何者にまれ乞食僧の昼間の住家を探り出だして、その来歴を発出《みいだ》さむ者には、賭物《かけもの》として金
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