大地をひしと打敲《うちたた》きつ、首を縮め、杖をつき、徐《おもむ》ろに歩を回《めぐ》らしける。
その背後《うしろ》より抜足差足、密《ひそか》に後をつけて行《ゆ》く一人《いちにん》の老媼あり。これかのお通の召使が、未《いま》だ何人《なんぴと》も知り得ざる蝦蟇法師の居所を探りて、納涼台《すずみだい》が賭物《かけもの》したる、若干の金子《きんす》を得むと、お通の制《とど》むるをも肯《き》かずして、そこに追及したりしなり。呼吸《いき》を殺して従い行《ゆ》くに、阿房《あほう》はさりとも知らざる状《さま》にて、殆《ほとん》ど足を曳摺《ひきず》る如く杖に縋《すが》りて歩行《あゆ》み行《ゆ》けり。
人里を出離《いではな》れつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮峻《けんしゅん》なる絶壁にて、勾配《こうばい》の急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点綴《てんてつ》せる山間の谷なれば、緑樹|長《とこしえ》に陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の洞穴《どうけつ》にこそかの摩利支天は祀《まつ》られたれ。
遥《はる》かに瞰下《みおろ》す幽谷は、白日闇《はくじつあん》の別境にて、夜昼なしに靄《もや》を籠《こ》め、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、啾々《しゅうしゅう》たる鬼気人を襲う、その物凄《ものすご》さ謂《い》わむ方なし。
まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑魅魍魎《ちみもうりょう》隊をなして、前途に塞《ふさが》るとも覚しきに、慾《よく》にも一歩を移し得で、あわれ立竦《たちすくみ》になりける時、二点の蛍光|此方《こなた》を見向き、一喝して、「何者ぞ。」掉冠《ふりかむ》れる蝦蟇法師の杖の下《もと》に老媼は阿呀《あわや》と蹲踞《うずくま》りぬ。
蝦蟇法師は流眄《しりめ》に懸け、「へ、へ、へ、うむ正に此奴《こやつ》なり、予が顔を傷附けたる、大胆者、讐返《しかえし》ということのあるを知らずして」傲然《ごうぜん》としてせせら笑う。
これを聞くより老媼はぞっと心臓まで寒くなりて、全体|氷柱《つらら》に化したる如く、いと哀れなる声を発して、「命ばかりはお助けあれ。」とがたがた震えていたりける。
四
さるほどに蝦蟇法師《がまほうし》はあくまで老媼《おうな》の胆《きも》を奪いて、
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