妖術
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)四辺《あたり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)両|三日《さんち》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて
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       一

 むらむらと四辺《あたり》を包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の艶《えん》な姿で、電車の中から、颯《さっ》と硝子戸《がらすど》を抜けて、運転手台に顕《あら》われた、若い女の扮装《みなり》と持物で、大略《あらまし》その日の天気模様が察しられる。
 日中《ひなか》は梅の香も女の袖《そで》も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上《のぼ》せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経《た》つと、花曇りという空合《そらあい》ながら、まだどうやら冬の余波《なごり》がありそうで、ただこう薄暗い中《うち》はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累《かさ》なると、ちらちら白いものでも交《まじ》りそうな気勢《けはい》がする。……両|三日《さんち》。
 今朝は麗《うらら》かに晴れて、この分なら上野の彼岸桜《ひがん》も、うっかり咲きそうなという、午頃《ひるごろ》から、急に吹出して、随分風立ったのが未《いま》だに止《や》まぬ。午後の四時頃。
 今しがた一時《ひとしきり》、大路が霞《かすみ》に包まれたようになって、洋傘《こうもり》はびしょびしょする……番傘には雫《しずく》もしないで、俥《くるま》の母衣《ほろ》は照々《てらてら》と艶《つや》を持つほど、颯《さっ》と一雨|掛《かか》った後で。
 大空のどこか、吻《ほっ》と呼吸《いき》を吐《つ》く状《さま》に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上《あが》りそうに見えるが、淡く濡れた日脚《ひあし》の根が定まらず、ふわふわ気紛《きまぐ》れに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。
 すっかり雨支度《あまじたく》でいるのもあるし、雪駄《せった》でばたばたと通るのもある。傘《からかさ》を拡げて大きく肩にかけたのが、伊達《だて》に行届いた姿見よがしに、大薩摩《おおざつま》で押して行《ゆ》くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好《い》いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙《せわ》しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。
 電車のちょっと停《と》まったのは、日本橋|通《とおり》三丁目の赤い柱で。
 今言ったその運転手台へ、鮮麗《あざやか》に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄《こまげた》に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重《こうはぶたえ》の褄捌《つまさば》き、柳の腰に靡《なび》く、と一段軽く踏んで下りようとした。
 コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘《こんじゃのめ》の細々と艶のあるを軽く持つ。
 ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎《ふなざき》という私の知己《ちかづき》――それから聞いたのをここに記す。
 舟崎は名を一帆《かずほ》といって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜《ゆうべ》の酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。
 一旦《いったん》家《うち》へ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡《ふりょうけん》を廻《めぐ》らしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、件《くだん》の三丁目に彳《たたず》みつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘《こうもり》の用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過《やりす》ごして、硝子戸越《がらすどご》しに西洋|小間《こま》ものを覗《のぞ》く人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、頻《しき》りに謀叛気《むほんぎ》を起していた。
 処へ……
 一目その艶《えん》なのを見ると、なぜか、気疾《きばや》に、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出《うごきだ》す、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。
 そこにぼんやりと立った状《さま》を、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺《あたり》の人に見らるるのを憚《はばか》ったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と渠《かれ》は云う。
 乗合いは随分|立籠《たてこ》んだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より前《さき》に映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿《あだすがた》。

       二

 誰も知った通り、この三丁目、中橋《なかばし》などは、通《とおり》の中でも相《あい》の宿《しゅく》で、電車の出入《ではい》りが余り混雑せぬ。
 停《と》まった時、二人三人は他《ほか》にも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。
 乗ったのは、どの口からも一帆一人。
 入るともう、直ぐにぐいと出る。
 ト前の硝子戸《がらすど》を外から開けて、その女が、何と!
 姿見から影を抜出《ぬけだ》したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。
 そして、ぱっちりした、霑《うるみ》のある、涼しい目を、心持|俯目《ふしめ》ながら、大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟《じっ》と見た。
 見た、と思うと、今立った旧《もと》の席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。
 その女は、丈長《たけなが》掛けて、銀の平打の後《うしろ》ざし、それ者《しゃ》も生粋《きっすい》と見える服装《みなり》には似ない、お邸好《やしきごの》みの、鬢水《びんみず》もたらたらと漆のように艶《つや》やかな高島田で、強《ひど》くそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬《めしちりめん》も、なぜか紫の俤立《おもかげだ》つ。
 空《す》いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側《おんなじがわ》で、一帆はちと慌《あわただ》しいまで、急いで腰を落したが。
 胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客《のりて》に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先《つまさき》も見えなかったが、一目見られた瞳《ひとみ》の力は、刻み込まれたか、と鮮麗《あざやか》に胸に描かれて、白木屋の店頭《みせさき》に、つつじが急流に燃ゆるような友染《ゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》のかかったのも、その女が向うへ飛んで、逆《さかさ》にまた硝子越《がらすご》しに、扱帯《しごき》を解いた乱姿《みだれすがた》で、こちらを差覗《さしのぞ》いているかと疑う。
 やがて、心着くと標示《しるし》は萌黄《もえぎ》で、この電車は浅草行。
 一帆がその住居《すまい》へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。
 もっとも、わざととはなしに、一帳場《ひとちょうば》ごとに気を注《つ》けたが、女の下りた様子はない。
 で、そこまで行《ゆ》くと、途中は厩橋《うまやばし》、蔵前《くらまえ》でも、駒形《こまがた》でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行《ゆ》くように信じられた。
 何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪《つま》はずれが堅気《かたぎ》と見えぬ。――何だろう。
 とそんな事。……中に人の数を夾《はさ》んだばかり、つい同じ車に居るものを、一年《ひととせ》、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々《いろいろ》な事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓《がらすまど》の薄暗くなって来たのさえ、確《しか》とは心着かぬ。
 が、蔵前を通る、あの名代《なだい》の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄《すさま》じく暗くなった。
 頸許《えりもと》がふと気になると、尾を曳《ひ》いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透《すか》して、雫《しずく》のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際|上《うわ》の空でいたのであった。
 さあ、浅草へ行《ゆ》くと、雷門が、鳴出したほどなその騒動《さわぎ》。
 どさどさ打《ぶち》まけるように雪崩《なだ》れて総立ちに電車を出る、乗合《のりあい》のあわただしさより、仲見世《なかみせ》は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女《なんにょ》の姿。
 風立つ中を群《むらが》って、颯《さっ》と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。
 きちがい日和《びより》の俄雨《にわかあめ》に、風より群集が狂うのである。
 その紛れに、女の姿は見えなくなった。
 電車の内はからりとして、水に沈んだ硝子函《がらすばこ》、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫の風情に見えて、束《つか》の間《ま》は塵《ちり》も留めず、――外の人の混雑は、鯱《しゃち》に追われたような中に。――
 一帆は誰よりも後《おく》れて下りた。もう一人も残らないから、女も出たには違いない。

       三

 が、拍子抜けのした事は夥多《おびただ》しい。
 ストンと溝へ落ちたような心持ちで、電車を下りると、大粒ではないが、引包《ひッつつ》むように細かく降懸《ふりかか》る雨を、中折《なかおれ》で弾《はじ》く精もない。
 鼠の鍔《つば》をぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを的《あて》に来たように、素直《まっすぐ》に広小路を切って、仁王門を真正面《まっしょうめん》。
 濡れても判明《はっきり》と白い、処々むらむらと斑《ふ》が立って、雨の色が、花簪《はなかんざし》、箱狭子《はこせこ》、輪珠数《わじゅず》などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目《わきめ》も触《ふ》らないで、御堂《みどう》の方《かた》へ。
 そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く匂《におい》が、雨を蒸して、暖かく顔を包む。
 その時、広小路で、電車の口から颯《さっ》と打った網の末《すそ》が一度、混雑の波に消えて、やがて、向《むき》のかわった仲見世へ、手元を細くすらすらと手繰寄せられた体《てい》に、前刻《さっき》の女が、肩を落して、雪かと思う襟脚細く、紺蛇目傘《こんじゃのめ》を、姿の柳に引掛《ひっか》けて、艶《つや》やかにさしながら、駒下駄を軽く、褄《つま》をはらはらとちと急いで来た。
 と見ると、左側から猶予《ため》らわないで、真中《まんなか》へ衝《つ》と寄って、一帆に肩を並べたのである。
 なよやかな白い手を、半ば露顕《あらわ》に、飜然《ひらり》と友染の袖を搦《から》めて、紺蛇目傘をさしかけながら、
「貴下《あなた》、濡れますわ。」
 と言う。瞳が、動いて莞爾《にっこり》。留南奇《とめき》の薫《かおり》が陽炎《かげろう》のような糠雨《ぬかあめ》にしっとり籠《こも》って、傘《からかさ》が透通るか、と近増《ちかまさ》りの美しさ。
 一帆の濡れた額は快よい汗になって、
「いいえ、構わない、私は。」
 と言った、がこれは心から素気《そっけ》のない意味ではなかった。
「だって、召物が。」
「何、外套《がいとう》を着ています。」
 と別に何の知己《ちかづき》でもない女に、言葉を交わすのを、不思議とも思わないで、こうして二言三言、云う中《うち》にも、つい、さしかけられたままで五足六足《いつあしむあし》。花の枝を手に提げて、片袖重いような心持で、同じ傘《からかさ》の中を歩行《ある》いた。
「人が見ます。」
 どうして見
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