るどころか、人脚の流るる中を、美しいしぶきを立てるばかり、仲店前を逆らって御堂の路《みち》へ上るのである。
また、誰が見ないまでも、本堂からは、門をうろ抜けの見透《みとおし》一筋、お宮様でないのがまだしも、鏡があると、歴然《ありあり》ともう映ろう。
「御迷惑?」
と察したように低声《こごえ》で言ったのが、なお色めいたが、ちっと蛇目傘《じゃのめ》を傾けた。
目隠しなんど除《と》れたかと、はっきりした心持で、
「迷惑どころじゃ……しかし穏《おだやか》ではありません。一人ものが随分通ります。」
とやっと苦笑した。
「では、別ッこに……」と云うなり、拗《す》ねた風にするりと離れた。
と思うと、袖を斜めに、ちょっと隠れた状《さま》に、一帆の方へ蛇目傘ながら細《ほっそ》りした背《せな》を見せて、そこの絵草紙屋の店を覗《なが》めた。けばけばしく彩った種々《いろいろ》の千代紙が、染《にじ》むがごとく雨に縺《もつ》れて、中でも紅《べに》が来て、女の瞼《まぶた》をほんのりとさせたのである。
今度は、一帆の方がその傍《そば》へ寄るようにして、
「どっちへいらっしゃる。」
「私?……」
と傘《からかさ》の柄に、左手《ゆんで》を添《そ》えた。それが重いもののように、姿が撓《しな》った。
「どこへでも。」
これを聞棄《ききず》てに、今は、ゆっくりと歩行《ある》き出したが、雨がふわふわと思いのまま軽い風に浮立つ中に、どうやら足許《あしもと》もふらふらとなる。
四
門の下で、後《うしろ》を振返って見た時は、何店《どこ》へか寄ったか、傍《わき》へ外《そ》れたか。仲見世の人通りは雨の朧《おぼろ》に、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。
それきり逢《あ》わぬ、とは心の裡《うち》に思わないながら、一帆は急に寂しくなった。
妙に心も更《あらた》まって、しばらく何事も忘れて、御堂《みどう》の階段を……あの大提灯《おおぢょうちん》の下を小さく上って、厳《おごそ》かな廂《ひさし》を……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬宝珠《ぎぼしゅ》で留まって、何やら吻《ほっ》と一息ついて、零《しずく》するまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手布《ハンケチ》で、ぐい、と拭《ぬぐ》った。
「素面《しらふ》だからな。」
と歎息するように独言《ひとりごと》して、扱《しご》いて片頬《かたほ》を撫《な》でた手をそのまま、欄干に肱《ひじ》をついて、遍《あまね》く境内をずらりと視《なが》めた。
早いもので、もう番傘の懐手《ふところで》、高足駄で悠々と歩行《ある》くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々《いろいろ》な処へ、これから奥は、御堂の背後《うしろ》、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯《ひきょう》な、相合傘《あいあいがさ》に後《おく》れは取らぬ、と肩の聳《そび》ゆるまで一人で気競《きお》うと、雨も霞《かす》んで、ヒヤヒヤと頬《ほお》に触る。一雫も酔覚《よいざめ》の水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく……
が、見透《みとお》しのどこへも、女の姿は近づかぬ。
「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」
と打棄《うっちゃ》り放す。
大提灯にはたはたと翼《つばさ》の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠《こも》る廂《ひさし》から、鳩が二三羽、衝《つ》と出て飜々《ひらひら》と、早や晴れかかる銀杏《いちょう》の梢《こずえ》を矢大臣門の屋根へ飛んだ。
胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆《ばあ》の前を、内端《うちば》な足取り、裳《もすそ》を細く、蛇目傘《じゃのめ》をやや前下りに、すらすらと撫肩《なでがた》の細いは……確《たしか》に。
スーと傘《からかさ》をすぼめて、手洗鉢《みたらし》へ寄った時は、衣服《きもの》の色が、美しく湛《たた》えた水に映るか、とこの欄干から遥《はる》かな心に見て取られた。……折からその道筋には、件《くだん》の女ただ一人で。
水色の手巾《ハンケチ》を、はらりと媚《なまめ》かしく口に啣《くわ》えた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊の方《かた》を見上げた。
のめのめとそこに待っていたのが、了簡《りょうけん》の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後《うしろ》向きに横へ廻る。
パッパッと田舎の親仁《おやじ》が、掌《てのひら》へ吸殻を転がして、煙管《きせる》にズーズーと脂《やに》の音。くく、とどこかで鳩の声。茜《あかね》の姉《あねえ》も三四人、鬱金《うこん》の婆様《ばさま》に、菜畠《なばたけ》の阿媽《かかあ》も交《まじ》って、どれも口を開けていた。
が、あ、と押魂消《おったまげ》て、ばらりと退《の》くと、そこの横手の開戸口《ひらきどぐち》から、艶麗《あでやか》なのが、すうと出た。
本堂へ詣《まい》ったのが、一廻りして、一帆の前に顕《あら》われたのである。
すぼめた蛇目傘《じゃのめ》に手を隠して、
「お待ちなすって?」
また、ほんのりと花の薫《かおり》。
「何、ちっとも。……ゆっくりお参詣《まいり》をなされば可《い》い。」
「貴下《あなた》こそ、前《さき》へいらしってお待ち下されば可《よ》うござんすのに、出張《でっぱ》りにいらしって、沫《しぶき》が冷《つめた》いではありませんか。」
さっさと先へ行《ゆ》けではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸が据《すわ》って、
「だって雨を潜《くぐ》って、一人でびしょびしょ歩行《ある》けますか。」
「でも、その方がお好《すき》な癖に……」
と云って、肩でわざとらしくない嬌態《しな》をしながら、片手でちょいと帯を圧《おさ》えた。ぱちん留《どめ》が少し摺《ず》って、……薄いが膨《ふっく》りとある胸を、緋鹿子《ひがのこ》の下〆《したじめ》が、八ツ口から溢《こぼ》れたように打合わせの繻子《しゅす》を覗《のぞ》く。
その間に、きりりと挟んだ、煙管筒《きせるづつ》? ではない。象牙骨《ぞうげぼね》の女扇を挿している。
今圧えた手は、帯が弛《ゆる》んだのではなく、その扇子《おうぎ》を、一息探く挿込んだらしかった。
五
紫の矢絣《やがすり》に箱迫《はこせこ》の銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜《やみざくら》とか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅《うすくれない》のちらちらする凄《すご》い好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘《こんじゃのめ》も肖《そぐ》わない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇子《おうぎ》は余りお儀式過ぎる。……踊の稽古《けいこ》の帰途《かえり》なら、相応したのがあろうものを、初手《しょて》から素性のおかしいのが、これで愈々《いよいよ》不思議になった。
が、それもその筈《はず》、あとで身上《みじょう》を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品《むすめてじな》、と云うのであった。
思い懸けず、余《あんま》り変ってはいたけれども、当人の女の名告《なの》るものを、怪しいの、疑わしいの、嘘言《うそ》だ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方《こなた》から推着《おしつ》けに、あれそれとも極《き》められないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆の頷《うなず》いたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御堂《みどう》の裏、田圃《たんぼ》の大金《だいきん》の、とある数寄屋造《すきやづく》り[#「数寄屋造り」は底本では「敷寄屋造り」]の四畳半に、膳《ぜん》を並べて差向った折からで。……
もっとも事のそこへ運んだまでに、いささか気になる道行《みちゆき》の途中がある。
一帆は既に、御堂の上で、その女に、大形の紙幣《さつ》を一枚、紙入から抜取られていたのであった。
やっぱり練磨の手術《てわざ》であろう。
その時、扇子を手で圧《おさ》えて、貴下《あなた》は一人で歩行《ある》く方が、
「……お好《すき》な癖に……」
とそう云うから、一帆は肩を揺《ゆす》って、
「こうなっちやもう構やしません。是非相合傘にして頂く。」と威《おど》すように云って笑った。
「まあ、駄々《だだ》ッ児《こ》のようだわね。」
と莞爾《にっこり》して、
「貴方《あなた》、」と少し改まる。
「え。」
「あの、少々お持合わせがござんすか。」
と澄まして言う。一帆はいささか覚悟はしていた。
「ああ。」
とわざと鷹揚《おうよう》に、
「幾干《いくら》ばかり。」
「十枚。」
と胸を素直《まっすぐ》にした、が、またその姿も佳《よ》かった。
「ちょいと、買物がしたいんですから。」
「お持ちなさい。」
この時、一帆は背後《うしろ》に立った田舎ものの方を振向いた。皆《みんな》、きょろりきょろりと視《なが》めた。
女は、帯にも突込《つっこ》まず、一枚|掌《たなそこ》に入れたまま、黙って、一帆に擦違《すれちが》って、角の擬宝珠《ぎぼしゅ》を廻って、本堂正面の階段の方へ見えなくなる。
大方、仲見世へ引返したのであろう、買物をするといえば。
さて何をするか、手間の取れる事一通りでない。
煙草《たばこ》ももう吸い飽きて、拱《こまぬ》いてもだらしなく、ぐったりと解ける腕組みを仕直し仕直し、がっくりと仰向《あおむ》いて、唇をペろぺろと舌で嘗《な》める親仁《おやじ》も、蹲《しゃが》んだり立ったりして、色気のない大欠伸《おおあくび》を、ああとする茜《あかね》の新姐《しんぞ》も、まんざら雨宿りばかりとは見えなかった。が、綺麗《きれい》な姉様《あねさま》を待飽倦《まちあぐ》んだそうで、どやどやと横手の壇を下《お》り懸けて、
「お待遠《まちどお》だんべいや。」
と、親仁がもっともらしい顔色《かおつき》して、ニヤリともしないで吐《ほざ》くと、女どもは哄《どっ》と笑って、線香の煙の黒い、吹上げの沫《しぶき》の白い、誰彼《たそが》れのような中へ、びしょびしょと入って行《ゆ》く。
吃驚《びっくり》して、這奴等《しやつら》、田舎ものの風をする掏賊《すり》か、ポン引《ひき》か、と思った。軽くなった懐中《ふところ》につけても、当節は油断がならぬ。
その時分まで、同じ処にぼんやりと立って待ったのである。
六
早く下りよ、と段はそこに階《きざはし》を明けて斜めに待つ。自分に恥じて、もうその上は待っていられないまでになった。
端へ出るのさえ、後を慕って、紙幣《さつ》に引摺《ひきず》られるような負惜《まけおし》みの外聞があるので、角の処へも出ないでいた。なぜか、がっかりして、気が抜けて、その横手から下りて、路《みち》を廻るのも億劫《おっくう》でならぬので、はじめて、ふらふらと前へ出て、元の本堂前の廻廊を廻って、欄干について、前刻《さっき》来がけとは勢《いきおい》が、からりとかわって、中折《なかおれ》の鍔《つば》も深く、面《おもて》を伏せて、そこを伝う風も、我ながら辿々《たどたど》しかった。
トあの大提灯を、釣鐘が目前《めのまえ》へぶら下ったように、ぎょっとして、はっと正面へ魅《つま》まれた顔を上げると、右の横手の、広前《ひろまえ》の、片隅に綺麗に取って、時ならぬ錦木《にしきぎ》が一本《ひともと》、そこへ植わった風情に、四辺《あたり》に人もなく一人立って、傘《からかさ》を半開き、真白《まっしろ》な横顔を見せて、生際《はえぎわ》を濃く、美しく目迎えて莞爾《にっこり》した。
「沢山《たんと》、待たせてさ。」と馴々《なれなれ》しく云うのが、遅くなった意味には取れず、逆《さかさま》に怨《うら》んで聞える。
言葉戦い合《かな》うまじ、と大手を拡げてむずと寄って、
「どこにしましょう。」
「どちらへでも、貴下《あなた》のお宜《よろ》しい処が可《よ》うござんす。」
「じゃ、行く処へいらっしゃい。」
「どうぞ。」
ともう、相合傘の支度らしい、片袖を胸に当てる、柄よりも姿が細《ほっそ》りする。
丈がすらりと高島田で、並ぶ
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