《ゆ》くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好《い》いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙《せわ》しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。
 電車のちょっと停《と》まったのは、日本橋|通《とおり》三丁目の赤い柱で。
 今言ったその運転手台へ、鮮麗《あざやか》に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄《こまげた》に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重《こうはぶたえ》の褄捌《つまさば》き、柳の腰に靡《なび》く、と一段軽く踏んで下りようとした。
 コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘《こんじゃのめ》の細々と艶のあるを軽く持つ。
 ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎《ふなざき》という私の知己《ちかづき》――それから聞いたのをここに記す。
 舟崎は名を一帆《かずほ》といって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜《ゆうべ》の酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。
 一旦《いったん》家《うち》へ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡《ふりょうけん》を廻《めぐ》らしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、件《くだん》の三丁目に彳《たたず》みつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘《こうもり》の用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過《やりす》ごして、硝子戸越《がらすどご》しに西洋|小間《こま》ものを覗《のぞ》く人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、頻《しき》りに謀叛気《むほんぎ》を起していた。
 処へ……
 一目その艶《えん》なのを見ると、なぜか、気疾《きばや》に、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出《うごきだ》す、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。
 そこにぼんやりと立った状《さま》を、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺《あたり》の人に見らるるのを憚《はばか》ったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と渠《かれ》は云う。
 乗合いは随分|立籠《た
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