うわう》交馳《かうち》し奔走せる状《さま》、一眼《ひとめ》見るだに胸悪きに、手足を縛《ばく》され衣服を剥《は》がれ若き婦人《をんな》の肥肉《ふとりじし》を酒塩《さかしほ》に味付けられて、虫の膳部に佳肴《かかう》となりしお村が当時を憶遣《おもひや》りて、予は思はずも慄然《りつぜん》たり。
こゝはや藪の中央ならむと旧《もと》来《き》し方《かた》を振返《ふりかへ》れば、真昼は藪に寸断されて点々星に髣《さも》髴《に》たり。なほ何程《なにほど》の奥やあると、及び腰に前途《ゆくて》を視《なが》む。時《とき》其時《そのとき》、玄々《げん/\》不可思議奇絶怪絶、紅《あか》きものちらりと見えて、背向《うしろむき》の婦人|一人《いちにん》、我を去る十歩の内に、立ちしは夢か、幻か、我はた現心《うつゝごころ》になりて思はず一歩《ひとあし》引退《ひつさが》れる、とたんに此方《こなた》を振返りし、眼《め》口《くち》鼻《はな》眉《まゆ》如何《いか》で見分けむ、唯《たゞ》、丸顔の真白《ましろ》き輪郭ぬつと出《い》でしと覚えしまで、予が絶叫せる声は聞《きこ》えで婦人が言《ことば》は耳に入りぬ、「こや人に説《い》ふ勿《なか》れ、妾《わらは》が此処《こゝ》にあることを」一種異様の語気音調、耳朶《みゝたぶ》にぶんと響き、脳にぐわら/\と浸《し》み渡《わた》れば、眼《まなこ》眩《くら》み、心《こゝろ》消《き》え、気も空《そら》になり足|漾《ただよ》ひ、魂ふら/\と抜出でて藻脱《もぬけ》となりし五尺の殻《から》の縁側まで逃げたるは、一秒を経ざる瞬間なりき。腋下《えきか》に颯《さつ》と冷汗流れて、襦袢《じゆばん》の背《せな》はしとゞ濡れたり。馳《は》せて書斎に引籠《ひきこも》り机に身をば投懸《なげか》けてほつと吐《つ》く息太く長く、多時《しばらく》観念の眼《まなこ》を閉ぢしが、「さても見まじきものを見たり」と声を発《いだ》して呟《つぶや》きける。「忍ぶれど色に出《で》にけり我恋は」と謂ひしは粋《すゐ》なる物思《ものおも》ひ、予はまた野暮なる物思《ものおもひ》に臆病の色|頬《ほ》に出でて蒼《あを》くなりつゝ結《むす》ぼれ返《かへ》るを、物や思ふと松川はじめ通学生等に問はるゝ度《たび》に、口の端《はた》むず/\するまで言出《いひい》だしたさに堪《たへ》ざれども、怪しき婦人が予を戒《いまし》め、人に勿《な》謂《い》
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