ひそと謂へりしが耳許《みゝもと》に残り居《を》りて、語出《かたりい》でむと欲する都度《つど》、おのれ忘れしか、秘密を漏らさば、活《い》けては置かじと囁《ささや》く様《やう》にて、心済まねば謂ひも出でず、もしそれ胸中の疑※[#「石+鬼」、第4水準2−82−48]《ぎくわい》を吐きて智識の教《をしへ》を請《う》けむには、胸襟《きようきん》乃《すなは》ち春《はる》開《ひら》けて臆病|疾《とみ》に癒《い》えむと思へど、無形の猿轡《さるぐつわ》を食《は》まされて腹のふくるゝ苦しさよ、斯《か》くて幽玄の裡《うち》に数日《すじつ》を閲《けみ》せり。
一夕《いつせき》、松川の誕辰《たんしん》なりとて奥座敷に予を招き、杯盤《はいばん》を排し酒肴《しゆかう》を薦《すゝ》む、献酬《けんしう》数回《すくわい》予は酒といふ大胆者《だいたんもの》に、幾分の力を得て積日《せきじつ》の屈託|稍《やゝ》散じぬ。談話《だんわ》の次手《ついで》に松川が塾の荒涼たるを歎《かこ》ちしより、予は前日藪を検《けん》せし一切《いつさい》を物語らむと、「実は……」と僅《わづか》に言懸《いひか》けける、正《まさ》に其時、啾々《しう/\》たる女の泣声《なきごえ》、針の穴をも通らむず糸より細く聞えにき。予は其《それ》を聞くと整《ひと》しく口をつぐみて悄気返《しよげかへ》れば、春雨《しゆんう》恰《あたか》も窓外に囁き至る、瀟々《せう/\》の音に和し、長吁《ちようう》短歎《たんたん》絶えてまた続く、婦人の泣音《きふおん》怪《あやし》むに堪へたり。
五
「あれは何が泣くのでせう」と松川に問へば苦い顔して、談話《はなし》を傍《わき》へそらしたるにぞ推《お》しては問はで黙して休《や》めり。ために折角《せつかく》の酔《ゑひ》は醒《さ》めたれども、酔うて席に堪《た》へずといひなし、予は寝室に退《しりぞ》きつ。思へば好事《よきこと》には泣くとぞ謂《い》ふなる密閉室《あかずのま》の一件が、今宵|誕辰《たんしん》の祝宴に悠々《いう/\》歓《くわん》を尽《つく》すを嫉《ねた》み、不快なる声を発して其《その》快楽を乱せるならむか、あはれ忌《い》むべしと夜着《よぎ》を被《かぶ》りぬ。眼は眠れども神《しん》は覚めたり。
寝られぬまゝに夜《よ》は更けぬ。時計一点を聞きて後《のち》、漸《やうや》く少しく眠気《ねむけ》ざし、精神|朦々《
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