《かゝ》れり。
 蓋《けだ》し薄弱《はくじやく》なる人間《にんげん》は、如何《いか》なる場合《ばあひ》にも多《おほ》くは己《おのれ》を恃《たの》む能《あた》はざるものなるが、其《そ》の最《もつと》も不安心《ふあんしん》と感《かん》ずるは海上《かいじやう》ならむ。
 然《さ》れば平日《ひごろ》然《さ》までに臆病《おくびやう》ならざる輩《はい》も、船出《ふなで》の際《さい》は兎《と》や角《かく》と縁起《えんぎ》を祝《いは》ひ、御幣《ごへい》を擔《かつ》ぐも多《おほ》かり。「一人女《ひとりをんな》」「一人坊主《ひとりばうず》」は、暴風《あれ》か、火災《くわさい》か、難破《なんぱ》か、いづれにもせよ危險《きけん》ありて、船《ふね》を襲《おそ》ふの兆《てう》なりと言傳《いひつた》へて、船頭《せんどう》は太《いた》く之《これ》を忌《い》めり。其日《そのひ》の加能丸《かのうまる》は偶然《ぐうぜん》一|人《にん》の旅僧《たびそう》を乘《の》せたり。乘客《じようかく》の暗愁《あんしう》とは他《た》なし、此《こ》の不祥《ふしやう》を氣遣《きづか》ふにぞありける。
 旅僧《たびそう》は年紀《とし》四十二三、
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