う気でも違ひたいよ。」としみじみと掻口説《かきくど》きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を確《たしか》に、心を鎮《しず》めよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を危《あや》ぶむやうそのたびになりまさりて、果《はて》はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。
 たとへば怪《あや》しき糸の十重二十重《とえはたえ》にわが身をまとふ心地《ここち》しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく思《おもい》あり。それをば刈払《かりはら》ひ、遁出《のがれい》でむとするにその術《すべ》なく、すること、なすこと、人見て必ず、眉《まゆ》を顰《ひそ》め、嘲《あざけ》り、笑ひ、卑《いやし》め、罵《ののし》り、はた悲《かなし》み憂《うれ》ひなどするにぞ、気あがり、心《こころ》激《げき》し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。
 口惜《くちお》しく腹立たしきまま身の周囲《まわり》はことごとく敵《かたき》ぞと思わるる。町も、家も、樹も、鳥籠《とりかご》も、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには一《ひと》たびわれを見てその弟を忘れしことあり。塵《ちり》一つとしてわが眼に入るは、すべてものの化《け》したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて現《げん》じたるものならむ。さればぞ姉がわが快復《かいふく》を祈る言《ことば》もわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、一《ひと》たびおもひては堪《た》ふべからず、力あらば恣《ほしいまま》にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴飛《けと》ばしやらむ、掻《かき》むしらむ、透《すき》あらばとびいでて、九《ここの》ツ谺《こだま》とをしへたる、たうときうつくしきかのひとの許《もと》に遁《に》げ去らむと、胸の湧《わ》きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。

     千呪陀羅尼《せんじゆだらに》

 毒ありと疑へばものも食はず、薬もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、優《やさ》しきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、罵《ののし》り叫びてあれたりしが、つひには声も出《い》でず、身も動かず、われ人をわきまへず心地
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