。乳《ちち》をのまむといふを姉上は許したまはず。
 ふところをかいさぐれば常に叱《しか》りたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた三年《みとせ》を経《へ》つ。乳《ち》の味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。垂玉《すいぎよく》の乳房《ちぶさ》ただ淡雪《あわゆき》の如く含むと舌にきえて触るるものなく、すずしき唾《つば》のみぞあふれいでたる。
 軽く背《せな》をさすられて、われ現《うつつ》になる時、屋《や》の棟《むね》、天井の上と覚《おぼ》し、凄《すさ》まじき音してしばらくは鳴りも止《や》まず。ここにつむじ風吹くと柱《はしら》動く恐しさに、わななき取《とり》つくを抱《だ》きしめつつ、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍《かんにん》しておくれよ、いけません。」
 とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。
「恐《こわ》くはないよ。鼠《ねずみ》だもの。」
 とある、さりげなきも、われはなほその響《ひびき》のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。
 うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある蒔絵《まきえ》ものの手箱のなかより、一口《ひとふり》の守刀《まもりがたな》を取出《とりだ》しつつ鞘《さや》ながら引《ひき》そばめ、雄々《おお》しき声にて、
「何が来てももう恐くはない。安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき状《さま》よと思ひてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残燈《ありあけ》暗く床柱《とこばしら》の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の色《いろ》籠《こ》めて、香《こう》の薫《かおり》残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく閉《とじ》たまひたる眼《め》の睫毛《まつげ》かぞふるばかり、すやすやと寝入りてゐたまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし瞻《みまも》りしが、淋《さび》しさにたへねばひそかにその唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと打《うち》まもりぬ。ふとその鼻頭《はなさき》をねらひて手をふれしに空《くう》を捻《ひね》りて、うつくしき人は雛《ひな》の如く顔の筋《すじ》ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで近々《ちかぢ
前へ 次へ
全21ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング