《みたらし》にて清めてみばやと寄りぬ。
 煤《すす》けたる行燈《あんどう》の横長きが一つ上にかかりて、ほととぎすの画《え》と句など書いたり。灯《ひ》をともしたるに、水はよく澄《す》みて、青き苔《こけ》むしたる石鉢《いしばち》の底もあきらかなり。手に掬《むす》ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠《こ》めて、気を鎮《しず》めて、両の眼《まなこ》を拭《ぬぐ》ひ拭ひ、水に臨《のぞ》む。
 われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかかるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわななきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
「お、お、千里《ちさと》。ええも、お前は。」と姉上ののたまふに、縋《すが》りつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、
「あれ!」
 といひて一足すさりて、
「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに衝《つ》と馳《は》せ去りたまへり。
 怪《あや》しき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつつ、ひたばしりに追いかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの口惜《くちお》しければ、とにかくもならばとてなむ。
 坂もおりたり、のぼりたり、大路《おおみち》と覚しき町にも出《い》でたり、暗き径《こみち》も辿《たど》りたり、野もよこぎりぬ。畦《あぜ》も越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。
 道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く横《よこた》はりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、大沼《おおぬま》とも覚しきが、前途《ゆくて》を塞《ふさ》ぐと覚ゆる蘆《あし》の葉の繁きがなかにわが身体《からだ》倒れたる、あとは知らず。

     五位鷺《ごいさぎ》

 眼のふち清々《すがすが》しく、涼しき薫《かおり》つよく薫ると心着《こころづ》く、身は柔《やわら》かき蒲団《ふとん》の上に臥したり。やや枕をもたげて見る、竹縁《ちくえん》の障子《しようじ》あけ放《はな》して、庭つづきに向ひなる山懐《やまふところ》に、緑の草の、ぬれ色青く生茂《おいしげ》りつ。その半腹《はんぷく》にかかりある厳角《いわかど》の苔《こけ》のなめらかなるに、一挺《いつちよう》はだか蝋《ろう》に灯《ひ》ともしたる灯影《ほかげ》すずしく、筧《かけい》の水むくむくと湧《わ》きて玉
前へ 次へ
全21ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング