ちつ》きたり。怪《あや》しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、愚《おろか》なる、と冷《ひやや》かに笑ひしに、思ひがけず、誰《たれ》ならむたまぎる声して、あわてふためき遁《に》ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。
「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。

     大沼《おおぬま》

「ゐないツて私《わたし》あどうしよう、爺《じい》や。」
「根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前様《まえさま》遊びに出します時、帯の結《むすび》めを丁《とん》とたたいてやらつしやれば好《よ》いに。」
「ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。」
「それはハヤ不念《ぶねん》なこんだ。帯の結《むすび》めさへ叩《たた》いときや、何がそれで姉様なり、母様《おふくろさま》なりの魂《たましい》が入るもんだで魔《エテ》めはどうすることもしえないでごす。」
「さうねえ。」とものかなしげに語らひつつ、社《やしろ》の前をよこぎりたまへり。
 走りいでしが、あまりおそかりき。
 いかなればわれ姉上をまで怪《あやし》みたる。
 悔《く》ゆれど及ばず、かなたなる境内《けいだい》の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。
 涙ぐみて彳《たたず》む時、ふと見る銀杏《いちよう》の木のくらき夜の空に、大《おおい》なる円《まる》き影して茂れる下に、女の後姿《うしろすがた》ありてわが眼《まなこ》を遮《さえぎ》りたり。
 あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此処《ここ》にあるを知られむは、拙《つたな》きわざなればと思ひてやみぬ。
 とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが優《やさ》しき姉上の姿に化《け》したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とて言《ことば》はかけざりしと、打泣《うちな》きしが、かひもあらず。
 あはれさまざまのものの怪《あや》しきは、すべてわが眼《まなこ》のいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、術《すべ》こそありけれ、かなたなる御手洗
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