処々《ところどころ》田の水へ、真黒な雲が往《い》ったり、来たり。
 並木《なみき》の松と松との間が、どんよりして、梢《こずえ》が鳴る、と思うとはや大粒な雨がばらばら、立樹《たちき》を五本と越えない中《うち》に、車軸を流す烈しい驟雨《ゆうだち》。ちょッ待て待て、と独言《ひとりごと》して、親仁《おやじ》が私の手を取って、そら、台なしになるから脱げと言うままにすると、帯を解いて、紋着《もんつき》を剥《は》いで、浅葱《あさぎ》の襟《えり》の細く掛《かか》った襦袢《じゅばん》も残らず。
 小児《こども》は糸も懸けぬ全裸体《まるはだか》。
 雨は浴《あび》るようだし、恐《こわ》さは恐し、ぶるぶる顫《ふる》えると、親仁が、強いぞ強いぞ、と言って、私の衣類を一丸《ひとまる》げにして、懐中を膨《ふく》らますと、紐を解いて、笠を一文字に冠《かぶ》ったです。
 それから幹に立たせて置いて、やがて例の桐油合羽《とうゆがっぱ》を開いて、私の天窓《あたま》からすっぽりと目ばかり出るほど、まるで渋紙《しぶかみ》の小児《こども》の小包。
 いや! 出来た、これなら海を潜《もぐ》っても濡れることではない、さあ、真直《まっすぐ》に前途《むこう》へ駈け出せ、曳《えい》、と言うて、板で打《ぶ》たれたと思った、私の臀《しり》をびたりと一つ。
 濡れた団扇《うちわ》は骨ばかりに裂けました。
 怪飛《けしと》んだようになって、蹌踉《よろ》けて土砂降《どしゃぶり》の中を飛出《とびだ》すと、くるりと合羽《かっぱ》に包まれて、見えるは脚ばかりじゃありませんか。
 赤蛙《あかがえる》が化けたわ、化けたわと、親仁《おやじ》が呵々《からから》と笑ったですが、もう耳も聞えず真暗三宝《まっくらさんぼう》。何か黒山《くろやま》のような物に打付《ぶッつ》かって、斛斗《もんどり》を打って仰様《のけざま》に転ぶと、滝のような雨の中に、ひひんと馬の嘶《いなな》く声。
 漸々《ようよう》人の手に扶《たす》け起《おこ》されると、合羽を解いてくれたのは、五十ばかりの肥った婆《ばあ》さん。馬士《まご》が一人|腕組《うでぐみ》をして突立《つッた》っていた。門《かど》の柳の翠《みどり》から、黒駒《くろこま》の背へ雫《しずく》が流れて、はや雲切《くもぎれ》がして、その柳の梢《こずえ》などは薄雲の底に蒼空《あおぞら》が動いています。
 妙なものが降り込んだ。これが豆腐《とうふ》なら資本《もとで》入《い》らずじゃ、それともこのまま熨斗《のし》を附けて、鎮守様《ちんじゅさま》へ納《おさ》めさっしゃるかと、馬士《まご》は掌《てのひら》で吸殻《すいがら》をころころ遣《や》る。
 主《ぬし》さ、どうした、と婆さんが聞くんですが、四辺《あたり》をきょときょと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すばかり。
 何処《どこ》から出た乞食《こじき》だよ、とまた酷《ひど》いことを言います。尤《もっと》も裸体《はだか》が渋紙《しぶかみ》に包まれていたんじゃ、氏素性《うじすじょう》あろうとは思わぬはず。
 衣物《きもの》を脱がせた親仁《おやじ》はと、唯《ただ》悔《くや》しく、来た方を眺めると、脊《せ》が小さいから馬の腹を透《す》かして雨上りの松並木、青田《あおだ》の縁《へり》の用水に、白鷺《しらさぎ》の遠く飛ぶまで、畷《なわて》がずっと見渡されて、西日がほんのり紅《あか》いのに、急な大雨で往来《ゆきき》もばったり、その親仁らしい姿も見えぬ。
 余《あまり》の事にしくしく泣き出すと、こりゃ餒《ひもじゅ》うて口も利けぬな、商売品《あきないもの》で銭《ぜに》を噛ませるようじゃけれど、一つ振舞《ふるも》うて遣《や》ろかいと、汚《きたな》い土間に縁台《えんだい》を並べた、狭ッくるしい暗い隅《すみ》の、苔《こけ》の生えた桶《おけ》の中から、豆腐《とうふ》を半挺《はんちょう》、皺手《しわで》に白く積んで、そりゃそりゃと、頬辺《ほっぺた》の処《ところ》へ突出《つきだ》してくれたですが、どうしてこれが食べられますか。
 そのくせ腹は干《ほ》されたように空いていましたが、胸一杯になって、頭《かぶり》を掉《ふ》ると、はて食好《しょくごのみ》をする犬の、と呟《つぶや》いて、ぶくりとまた水へ落して、これゃ、慈悲を享《う》けぬ餓鬼《がき》め、出て失《う》せと、私の胸へ突懸《つッか》けた皺だらけの手の黒さ、顔も漆《うるし》で固めたよう。
 黒婆《くろばば》どの、情《なさけ》ない事せまいと、名もなるほど黒婆というのか、馬士《まご》が中へ割って入《い》ると、貸《かし》を返せ、この人足めと怒鳴《どな》ったです。するとその豆腐の桶のある後《うしろ》が、蜘蛛《くも》の巣だらけの藤棚で、これを地境《じざかい》にして壁も垣《かき》もない隣家《となり》の小家《こいえ》
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