っていたからであろうも知れんが、お腹《なか》が空かぬだけに一向《いっこう》苦にならず。壊れた竹の欄干《らんかん》に掴《つかま》って、月の懸《かか》った雲の中の、あれが医王山と見ている内に、橋板《はしいた》をことこと踏んで、
 向《むこう》の山に、猿が三|疋《びき》住みやる。中の小猿が、能《よ》う物《もの》饒舌《しゃべ》る。何と小児《こども》ども花折《はなお》りに行《ゆ》くまいか。今日の寒いに何の花折りに。牡丹《ぼたん》、芍薬《しゃくやく》、菊の花折りに。一本折っては笠に挿《さ》し、二本折っては、蓑《みの》に挿し、三枝《みえだ》四枝《よえだ》に日が暮れて……とふと唄いながら。……
 何となく心に浮んだは、ああ、向うの山から、月影に見ても色の紅《くれない》な花を採って来て、それを母親の髪に挿したら、きっと病気が復《なお》るに違いないと言う事です。また母は、その花を簪《かんざし》にしても似合うくらい若かったですな。」
 高坂は旧《もと》来た方《かた》を顧《かえり》みたが、草の外《ほか》には何もない、一歩《ひとあし》前《さき》へ花売《はなうり》の女、如何《いか》にも身に染《し》みて聞くように、俯向《うつむ》いて行《ゆ》くのであった。
「そして確《たしか》に、それが薬師《やくし》のお告《つげ》であると信じたですね。
 さあ思い立っては矢《や》も楯《たて》も堪《たま》らない、渡り懸けた橋を取って返して、堤防《どて》伝いに川上へ。
 後《あと》でまた渡《わたし》を越えなければならない路ですがね、橋から見ると山の位置《ありか》は月の入《い》る方へ傾いて、かえって此処《ここ》から言うと、対岸《むこうぎし》の行留《ゆきどま》りの雲の上らしく見えますから、小児心《こどもごころ》に取って返したのが丁《ちょう》ど幸《さいわい》と、橋から渡場《わたしば》まで行《ゆ》く間の、あの、岩淵《いわぶち》の岩は、人を隔てる医王山の一《いち》の砦《とりで》と言っても可《よ》い。戸室《とむろ》の石山《いしやま》の麓が直《すぐ》に流《ながれ》に迫る処《ところ》で、累《かさな》り合った岩石だから、路は其処《そこ》で切れるですものね。
 岩淵をこちらに見て、大方《おおかた》跣足《はだし》でいたでしょう、すたすた五里も十里も辿《たど》った意《つもり》で、正午《ひる》頃に着いたのが、鳴子《なるこ》の渡《わたし》。」

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