》う音。尤《もっと》も帯をしめようとして、濃いお納戸《なんど》の紋着に下じめの装《なり》で倒れた時、乳母が大声で人を呼んだです。
 やがて医者《せんせい》が袴《はかま》の裾《すそ》を、ずるずるとやって駈け込んだ。私には戸外《おもて》へ出て遊んで来いと、乳母が言ったもんだから、庭から出たです。今も忘れない。何とも言いようのない、悲しい心細い思いがしましたな。」
 花売《はなうり》は声細く、
「御道理《ごもっとも》でございますねえ。そして母様《おっかさん》はその後《のち》快《よ》くおなりなさいましたの。」
「お聞きなさい、それからです。
 小児《こども》は切《せめ》て仏の袖《そで》に縋《すが》ろうと思ったでしょう。小立野《こだつの》と言うは場末《ばすえ》です。先ず小さな山くらいはある高台、草の茂った空地沢山《あきちだくさん》な、人通りのない処《ところ》を、その薬師堂《やくしどう》へ参ったですが。
 朝の内に月代《さかやき》、沐浴《ゆあみ》なんかして、家を出たのは正午《ひる》過《すぎ》だったけれども、何時《いつ》頃薬師堂へ参詣して、何処《どこ》を歩いたのか、どうして寝たのか。
 翌朝《あくるあさ》はその小立野から、八坂《はっさか》と言います、八段《やきだ》に黒い滝の落ちるような、真暗《まっくら》な坂を降りて、川端へ出ていた。川は、鈴見《すずみ》という村の入口で、流《ながれ》も急だし、瀬の色も凄《すご》いです。
 橋は、雨や雪に白《しら》っちゃけて、長いのが処々《ところどころ》、鱗《うろこ》の落ちた形に中弛《なかだる》みがして、のらのらと架《かか》っているその橋の上に茫然《ぼんやり》と。
 後《のち》に考えてこそ、翌朝《あくるあさ》なんですが、その節《せつ》は、夜を何処《どこ》で明かしたか分らないほどですから、小児《こども》は晩方《ばんがた》だと思いました。この医王山の頂《いただき》に、真白な月が出ていたから。
 しかし残月《ざんげつ》であったんです。何為《なぜ》かというにその日の正午《ひる》頃、ずっと上流の怪《あや》しげな渡《わたし》を、綱に掴《つか》まって、宙へ釣《つる》されるようにして渡った時は、顔が赫《かっ》とする晃々《きらきら》と烈《はげし》い日当《ひあたり》。
 こういうと、何だか明方《あけがた》だか晩方《ばんがた》だか、まるで夢のように聞えるけれども、渡《わた
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