默《だま》つて/\と、目《め》くばせして、衣紋坂《えもんざか》より土手《どて》に出《い》でしが、幸《さいは》ひ神田《かんだ》の伯父《をぢ》に逢《あ》はず、客待《きやくまち》の車《くるま》と、烈《はげ》しい人通《ひとどほり》の眞晝間《まつぴるま》、露店《ほしみせ》の白《しろ》い西瓜《すゐくわ》、埃《ほこり》だらけの金鍔燒《きんつばやき》、おでんの屋臺《やたい》の中《なか》を拔《ぬ》けて柳《やなぎ》の下《した》をさつ/\と行《ゆ》く。實《じつ》は土手《どて》の道哲《だうてつ》に結縁《けちえん》して艷福《えんぷく》を祈《いの》らばやと存《ぞん》ぜしが、まともに西日《にしび》を受《う》けたれば、顏《かほ》がほてつて我慢《がまん》ならず、土手《どて》を行《ゆ》くこと纔《わづか》にして、日蔭《ひかげ》の田町《たまち》へ遁《に》げて下《お》りて、さあ、よし。北八《きたはち》大丈夫《だいぢやうぶ》だ、と立直《たちなほ》つて悠然《いうぜん》となる。此邊《このあたり》小《こ》ぢんまりとしたる商賣《あきなひや》の軒《のき》ならび、しもたやと見《み》るは、産婆《さんば》、人相見《にんさうみ》、お手紙《てがみ》したゝめ處《どころ》なり。一軒《いつけん》、煮染屋《にしめや》の前《まへ》に立《た》ちて、買物《かひもの》をして居《ゐ》た中年増《ちうどしま》の大丸髷《おほまるまげ》、紙《かみ》あまた積《つ》んだる腕車《くるま》を推《お》して、小僧《こぞう》三人《さんにん》向《むか》うより來懸《きかゝ》りしが、私語《しご》して曰《いは》く、見《み》ねえ、年明《ねんあけ》だと。
 路《みち》に太郎稻荷《たらういなり》あり、奉納《ほうなふ》の手拭《てぬぐひ》堂《だう》を蔽《おほ》ふ、小《ちさ》き鳥居《とりゐ》夥多《おびたゞ》し。此處《こゝ》彼處《かしこ》露地《ろぢ》の日《ひ》あたりに手習草紙《てならひざうし》を干《ほ》したるが到《いた》る處《ところ》に見《み》ゆ、最《いと》もしをらし。それより待乳山《まつちやま》の聖天《しやうでん》に詣《まう》づ。
 本堂《ほんだう》に額《ぬかづ》き果《は》てて、衝《つ》と立《た》ちて階《きざはし》の方《かた》に歩《あゆ》み出《い》でたるは、年紀《とし》はやう/\二十《はたち》ばかりと覺《おぼ》しき美人《びじん》、眉《まゆ》を拂《はら》ひ、鐵漿《かね》をつけたり。前垂《まへだれ》がけの半纏着《はんてんぎ》、跣足《はだし》に駒下駄《こまげた》を穿《は》かむとして、階下《かいか》につい居《ゐ》る下足番《げそくばん》の親仁《おやぢ》の伸《のび》をする手《て》に、一寸《ちよつと》握《にぎ》らせ行《ゆ》く。親仁《おやぢ》は高々《たか/″\》と押戴《おしいたゞ》き、毎度《まいど》何《ど》うも、といふ。境内《けいだい》の敷石《しきいし》の上《うへ》を行《ゆ》きつ戻《もど》りつ、別《べつ》にお百度《ひやくど》を踏《ふ》み居《ゐ》るは男女《なんによ》二人《ふたり》なり。女《をんな》は年紀《とし》四十ばかり。黒縮緬《くろちりめん》の一《ひと》ツ紋《もん》の羽織《はおり》を着《き》て足袋《たび》跣足《はだし》、男《をとこ》は盲縞《めくらじま》の腹掛《はらがけ》、股引《もゝひき》、彩《いろどり》ある七福神《しちふくじん》の模樣《もやう》を織《お》りたる丈長《たけなが》き刺子《さしこ》を着《き》たり。これは素跣足《すはだし》、入交《いりちが》ひになり、引違《ひきちが》ひ、立交《たちかは》りて二人《ふたり》とも傍目《わきめ》も觸《ふ》らず。おい邪魔《じやま》になると惡《わる》いよと北八《きたはち》を促《うなが》し、道《みち》を開《ひら》いて、見晴《みはらし》に上《のぼ》る。名《な》にし負《お》ふ今戸《いまど》あたり、船《ふね》は水《みづ》の上《うへ》を音《おと》もせず、人《ひと》の家《いへ》の瓦屋根《かはらやね》の間《あひだ》を行交《ゆきか》ふ樣《さま》手《て》に取《と》るばかり。水《みづ》も青《あを》く天《てん》も青《あを》し。白帆《しらほ》あちこち、處々《ところ/″\》煙突《えんとつ》の煙《けむり》たなびけり、振《ふり》さけ見《み》れば雲《くも》もなきに、傍《かたはら》には大樹《たいじゆ》蒼空《あをぞら》を蔽《おほ》ひて物《もの》ぐらく、呪《のろひ》の釘《くぎ》もあるべき幹《みき》なり。おなじ臺《だい》に向顱巻《むかうはちまき》したる子守女《こもりをんな》三人《さんにん》あり。身體《からだ》を搖《ゆす》り、下駄《げた》にて板敷《いたじき》を踏鳴《ふみな》らす音《おと》おどろ/\し。其《その》まゝ渡場《わたしば》を志《こゝろざ》す、石段《いしだん》の中途《ちうと》にて行逢《ゆきあ》ひしは、日傘《ひがさ》さしたる、十二ばかりの友禪縮緬《いうぜんちりめん》、踊子《をどりこ》か。
 振返《ふりかへ》れば聖天《しやうでん》の森《もり》、待乳《まつち》沈《しづ》んで梢《こずゑ》乘込《のりこ》む三谷堀《さんやぼり》は、此處《こゝ》だ、此處《こゝ》だ、と今戸《いまど》の渡《わたし》に至《いた》る。
 出《で》ますよ、さあ早《はや》く/\。彌次《やじ》舷端《ふなばた》にしがみついてしやがむ。北八《きたはち》悠然《いうぜん》とパイレートをくゆらす。乘合《のりあひ》十四五人《じふしごにん》、最後《さいご》に腕車《わんしや》を乘《の》せる。船《ふね》少《すこ》し右《みぎ》へ傾《かたむ》く、はツと思《おも》ふと少《すこ》し蒼《あを》くなる。丁《とん》と棹《さを》をつく、ゆらりと漕出《こぎだ》す。
 船頭《せんどう》さん、渡場《わたしば》で一番《いちばん》川幅《かははゞ》の廣《ひろ》いのは何處《どこ》だい。先《ま》づ此處《こゝ》だね。何町位《なんちやうぐらゐ》あるねといふ。唾《つば》乾《かわ》きて齒《は》の根《ね》も合《あ》はず、煙管《きせる》は出《だ》したが手《て》が震《ふる》へる。北八《きたはち》は、にやり/\、中流《ちうりう》に至《いた》る頃《ころほ》ひ一錢蒸汽《いつせんじようき》の餘波《よは》來《きた》る、ぴツたり突伏《つツぷ》して了《しま》ふ。危《あぶね》えといふは船頭《せんどう》の聲《こゑ》、ヒヤアと肝《きも》を冷《ひや》す。圖《はか》らざりき、急《せ》かずに/\と二《に》の句《く》を續《つゞ》けるのを聞《き》いて、目《め》を開《ひら》けば向島《むかうじま》なり。それより百花園《ひやくくわゑん》に遊《あそ》ぶ。黄昏《たそがれ》たり。
    萩《はぎ》暮《く》れて薄《すゝき》まばゆき夕日《ゆふひ》かな
 言《い》ひつくすべくもあらず、秋草《あきぐさ》の種々《くさ/″\》數《かぞ》ふべくもあらじかし。北八《きたはち》が此作《このさく》の如《ごと》きは、園内《ゑんない》に散《ちら》ばつたる石碑《せきひ》短册《たんじやく》の句《く》と一般《いつぱん》、難澁《なんじふ》千萬《せんばん》に存《ぞん》ずるなり。
 床几《しやうぎ》に休《いこ》ひ打眺《うちなが》むれば、客《きやく》幾組《いくくみ》、高帽《たかばう》の天窓《あたま》、羽織《はおり》の肩《かた》、紫《むらさき》の袖《そで》、紅《くれなゐ》の裙《すそ》、薄《すゝき》に見《み》え、萩《はぎ》に隱《かく》れ、刈萱《かるかや》に搦《から》み、葛《くず》に絡《まと》ひ、芙蓉《ふよう》にそよぎ、靡《なび》き亂《みだ》れ、花《はな》を出《い》づる人《ひと》、花《はな》に入《い》る人《ひと》、花《はな》をめぐる人《ひと》、皆《みな》此花《このはな》より生《うま》れ出《い》でて、立去《たちさ》りあへず、舞《ま》ひありく、人《ひと》の蝶《てふ》とも謂《い》ひつべう。
 などと落雁《らくがん》を噛《かじ》つて居《ゐ》る。處《ところ》へ! 供《とも》を二人《ふたり》つれて、車夫體《しやふてい》の壯佼《わかもの》にでつぷりと肥《こ》えた親仁《おやぢ》の、唇《くちびる》がべろ/\として無花果《いちじゆく》の裂《さ》けたる如《ごと》き、眦《めじり》の下《さが》れる、頬《ほゝ》の肉《にく》掴《つか》むほどあるのを負《お》はして、六十《ろくじふ》有餘《いうよ》の媼《おうな》、身《み》の丈《たけ》拔群《ばつくん》にして、眼《まなこ》鋭《するど》く鼻《はな》の上《うへ》の皺《しわ》に惡相《あくさう》を刻《きざ》み齒《は》の揃《そろ》へる水々《みづ/\》しきが、小紋《こもん》縮緬《ちりめん》のりう[#「りう」に傍点]たる着附《きつけ》、金時計《きんどけい》をさげて、片手《かたて》に裳《もすそ》をつまみ上《あ》げ、さすがに茶澁《ちやしぶ》の出《で》た脛《はぎ》に、淺葱《あさぎ》縮緬《ちりめん》を搦《から》ませながら、片手《かたて》に銀《ぎん》の鎖《くさり》を握《にぎ》り、これに渦毛《うづけ》の斑《ぶち》の艷々《つや/\》しき狆《ちん》を繋《つな》いで、ぐい/\と手綱《たづな》のやうに捌《さば》いて來《き》しが、太《ふと》い聲《こゑ》して、何《ど》うぢや未《ま》だ歩行《ある》くか、と言《い》ふ/\人《ひと》も無《な》げにさつさつと縱横《じうわう》に濶歩《くわつぽ》する。人《ひと》に負《おぶ》はして連《つ》れた親仁《おやぢ》は、腰《こし》の拔《ぬ》けたる夫《をつと》なるべし。驚破《すは》秋草《あきぐさ》に、あやかしのついて候《さふらふ》ぞ、と身構《みがまへ》したるほどこそあれ、安下宿《やすげしゆく》の娘《むすめ》と書生《しよせい》として、出來合《できあひ》らしき夫婦《ふうふ》の來《きた》りしが、當歳《たうさい》ばかりの嬰兒《あかんぼ》を、男《をとこ》が、小手《こて》のやうに白《しろ》シヤツを鎧《よろ》へる手《て》に、高々《たか/″\》と抱《いだ》いて、大童《おほわらは》。それ鼬《いたち》の道《みち》を切《き》る時《とき》押《お》して進《すゝ》めば禍《わざはひ》あり、山《やま》に櫛《くし》の落《お》ちたる時《とき》、之《これ》を避《さ》けざれば身《み》を損《そこな》ふ。兩頭《りやうとう》の蛇《へび》を見《み》たるものは死《し》し、路《みち》に小兒《こども》を抱《だ》いた亭主《ていしゆ》を見《み》れば、壽《ことぶき》長《なが》からずとしてある也《なり》。ああ情《なさけ》ない目《め》を見《み》せられる、鶴龜々々《つるかめ/\》と北八《きたはち》と共《とも》に寒《さむ》くなる。人《ひと》の難儀《なんぎ》も構《かま》はばこそ、瓢箪棚《へうたんだな》の下《した》に陣取《ぢんど》りて、坊《ばう》やは何處《どこ》だ、母《かあ》ちやんには、見《み》えないよう、あばよといへ、ほら此處《こゝ》だ、ほらほらはゝはゝゝおほゝゝと高笑《たかわらひ》。弓矢八幡《ゆみやはちまん》もう堪《たま》らぬ。よい/\の、犬《いぬ》の、婆《ばゞ》の、金時計《きんどけい》の、淺葱《あさぎ》の褌《ふんどし》の、其上《そのうへ》に、子抱《こかゝへ》の亭主《ていしゆ》と來《き》た日《ひ》には、こりや何時《いつ》までも見《み》せられたら、目《め》が眩《くら》まうも知《し》れぬぞと、あたふた百花園《ひやくくわゑん》を遁《に》げて出《で》る。
 白髯《しらひげ》の土手《どて》へ上《あが》るが疾《はや》いか、さあ助《たす》からぬぞ。二人乘《ににんのり》、小官員《こくわんゐん》と見《み》えた御夫婦《ごふうふ》が合乘《あひのり》也《なり》。ソレを猜《そね》みは仕《つかまつ》らじ。妬《や》きはいたさじ、何《なん》とも申《まを》さじ。然《さ》りながら、然《さ》りながら、同一《おなじ》く子持《こもち》でこれが又《また》、野郎《やらう》が膝《ひざ》にぞ抱《だ》いたりける。
 わツといつて駈《か》け拔《ぬ》けて、後《あと》をも見《み》ずに五六町《ごろくちやう》、彌次《やじ》さん、北八《きたはち》、と顏《かほ》を見合《みあ》はせ、互《たがひ》に無事《ぶじ》を祝《しゆく》し合《あ》ひ、まあ、ともかくも橋《はし》を越《こ》さう、腹《はら》も丁度《ちやうど》北山《きたやま》だ、筑波《つくば》おろしも寒《さむ》うなつたと、急足《い
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