気《いんき》である。引窓に射す、何の影か、薄あかりに一目見ると、唇がひッつゝた。……何《ど》うして小児《こども》の手で、と疑ふばかり、大きな沢庵石が手桶の上に、づしんと乗つて、あだ黒く、一つくびれて、ぼうと浮いて、可厭《いや》なものゝ形に見えた。
くわッと逆上《のぼ》せて、小腕《こがいな》に引《ひき》ずり退《の》けると、水を刎《は》ねて、ばちや/\と鳴つた。
もの音もきこえない。
蓋を向うへはづすと、水も溢れるまで、手桶の中に輪をぬめらせた、鰻が一條《ひとすじ》、唯一條であつた。のろ/\と畝《うね》つて、尖つた頭を恁《こ》うあげて、女房の蒼白い顔を熟《じっ》と視た。――と言ふのである。
◇
山東京伝《さんとうきょうでん》が小説を書く時には、寝る事も食事をする事も忘れて熱心に書き続けたものだが、新しい小説の構造が頭に浮んでくると、真夜中にでも飛び起きて机に向つた。
そして興が深くなつて行くと、便所へ行く間も惜しいので、便器を机の傍《そば》に置いてゐたといふ事である。
底本:「集成 日本の釣り文学 第九巻 釣り話 魚話」作品社
1996(平成8)年10月10日
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