夜行巡査
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)爺《じい》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人|心地《ごこち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](明治二十八年四月「文芸倶楽部」)
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一
「こう爺《じい》さん、おめえどこだ」と職人体の壮佼《わかもの》は、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問い懸《か》けたり。車夫の老人は年紀《とし》すでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、
「どうぞまっぴら御免なすって、向後《こうご》きっと気を着けまする。へいへい」
と、どぎまぎして慌《あわ》ておれり。
「爺さん慌てなさんな。こう己《おり》ゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。なんの縛ろうとは謂《い》やしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪《すこかんしゃく》に障《さわ》って堪《こた》えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装《みなり》が悪いとって咎《とが》めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損《しぞこな》いでもしなすったのか、ええ、爺さん」
問われて老車夫は吐息をつき、
「へい、まことにびっくりいたしました。巡査《おまわり》さんに咎められましたのは、親父《おやじ》今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人|心地《ごこち》もござりませなんだ。いやもうから意気地《いくじ》がござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引《ももひ》きが破れまして、膝《ひざ》から下が露出《むきだ》しでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! って喚《わめ》かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」
壮佼はしきりに頷《うなず》けり。
「むむ、そうだろう。気の小さい維新前《むかし》の者は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主の抱《かか》え車《ぐるま》じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿《は》きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯《ちょうちん》より見っこのねえ闇夜《やみ》だろうじゃねえか、風俗も糸瓜《へちま》もあるもんか。うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉《かんがらす》め。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ない処《ところ》なら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。おらあ別に人の褌襠《ふんどし》で相撲《すもう》を取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車《くるま》を曳《ひ》くなあ、よくよくのことだと思いねえ。チョッ、べら棒め、サーベルがなけりゃ袋叩《ふくろだた》きにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。へん、お堀端あこちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やあ胴上げして鴨《かも》のあしらいにしてやらあ」
口を極《きわ》めてすでに立ち去りたる巡査を罵《ののし》り、満腔《まんこう》の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦《さす》りしが、四谷組合と記《しる》したる煤《すす》け提灯《ちょうちん》の蝋燭《ろうそく》を今継ぎ足して、力なげに梶棒《かじぼう》を取り上ぐる老車夫の風采《ふうさい》を見て、壮佼《わかもの》は打ち悄《しお》るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人《かせぎて》はおめえばかりか、孫子はねえのかい」
優しく謂《い》われて、老車夫は涙ぐみぬ。
「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、よう稼《かせ》いでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火《あんか》を抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計《くらし》が立ちかねますので、蛙《かえる》の子は蛙になる、親仁《おやじ》ももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀《とし》は取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車《くるま》をこうやって曳《ひ》きますが、何が、達者で、きれいで、安い
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