という、三拍子も揃《そろ》ったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然|装《なり》なんぞも構うことはできませんので、つい、巡査《おまわり》さんに、はい、お手数を懸《か》けるようにもなりまする」
いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方《ひとかた》ならず心を動かし、
「爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人|息子《むすこ》が兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言い籠《こ》めて隙《ひま》あ潰《つぶ》さした埋め合わせに、酒代《さかて》でもふんだくってやればいいに」
「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうお肯《き》き入れがござりませんので」
壮佼はますます憤りひとしお憐《あわ》れみて、
「なんという木念人《ぼくねんじん》だろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょに歩《あゆ》びねえ。股火鉢《またひばち》で五合《ごんつく》とやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴《つか》めえて、剣突《けんつく》もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指《さ》してみろ、今じゃおいらが後見だ」
憤慨と、軽侮と、怨恨《えんこん》とを満たしたる、視線の赴くところ、麹《こうじ》町一番町英国公使館の土塀《どべい》のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜《あんや》に怪獣の眼《まなこ》のごとし。
二
公使館のあたりを行くその怪獣は八田義延《はったよしのぶ》という巡査なり。渠《かれ》は明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町《なにがしまち》の交番を発し、一時間交替の巡回の途に就《つ》けるなりき。
その歩行《あゆむ》や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩《おそ》からず、早からず、着々歩を進めて路《みち》を行くに、身体《からだ》はきっとして立ちて左右に寸毫《すんごう》も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。
制帽の庇《ひさし》の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。
渠は左右のものを見、上下のものを視《なが》むるとき、さらにその顔を動かし、首を掉《ふ》ることをせざれども、瞳《ひとみ》は自在に回転して、随意にその用を弁ずるなり。
されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端《ほりばた》の芝生《しばふ》の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇《くちなわ》の這《は》えるがごとき人の踏みしだきたる痕《あと》を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射《さ》せること、その門前なる二|柱《ちゅう》のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋《わらじ》の片足の、霜に凍《い》て附《つ》きて堅くなりたること、路傍《みちばた》にすくすくと立ち併《なら》べる枯れ柳の、一陣の北風に颯《さ》と音していっせいに南に靡《なび》くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷《いちる》の煙の立ち騰《のぼ》ること等、およそ這般《このはん》のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免《のが》るることを得ざりしなり。
しかも渠は交番を出《い》でて、路に一個の老車夫を叱責《しっせき》し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後《うしろ》を振り返りしことあらず。
渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後《うしろ》には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼《まなこ》に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。
兇徒《きょうと》あり、白刃を揮《ふる》いて背後《うしろ》より渠を刺さんか、巡査はその呼吸《いき》の根の留まらんまでは、背後《うしろ》に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼《まなこ》の観察の一度達したるところには、たとい藕糸《ぐうし》の孔中といえども一点の懸念をだに遺《のこ》しおかざるを信ずるによれり。
ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々《ゆうゆう》としてただ前途のみを志すを得《う》るなりけり。
その靴《くつ》は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音《きょうおん》を送りつつ、
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