行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木《かぶき》門の下に踞《うずく》まれる物体ありて、わが跫音《あしおと》に蠢《うごめ》けるを、例の眼にてきっと見たり。
八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々《やつやつ》しき婦人《おんな》なりき。
一個《ひとり》の幼児《おさなご》を抱きたるが、夜深《よふ》けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊《し》め、着たる襤褸《らんる》の綿入れを衾《ふすま》となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子《おやこ》に一銭の恵みを垂《た》れずとも、たれか憐《あわ》れと思わざらん。
しかるに巡査は二つ三つ婦人の枕頭《まくらもと》に足踏みして、
「おいこら、起きんか、起きんか」
と沈みたる、しかも力を籠《こ》めたる声にて謂えり。
婦人はあわただしく蹶《は》ね起きて、急に居住まいを繕《つくろ》いながら、
「はい」と答うる歯の音も合わず、そのまま土に頭《こうべ》を埋めぬ。
巡査は重々しき語気をもて、
「はいではない、こんな処《ところ》に寝ていちゃあいかん、疾《はや》く行け、なんという醜態だ」
と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸《いき》の下にて、
「はい、恐れ入りましてございます」
かく打ち謝罪《わぶ》るときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、饑《う》えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸《うらが》れたり。母は見るより人目も恥じず、慌《あわ》てて乳房《ちぶさ》を含ませながら、
「夜分のことでございますから、なにとぞ旦那《だんな》様お慈悲でございます。大眼《おおめ》に御覧あそばして」
巡査は冷然として、
「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」
おりからひとしきり荒《すさ》ぶ風は冷を極《きわ》めて、手足も露《あら》わなる婦人《おんな》の膚《はだ》を裂きて寸断せんとせり。渠はぶるぶると身を震わせ、鞠《まり》のごとくに竦《すく》みつつ、
「たまりません、もし旦那、どうぞ、後生でございます。しばらくここにお置きあそばしてくださいまし。この寒さにお堀端の吹き曝《さら》しへ出ましては、こ、この子がかわいそうでございます。いろいろ災難に逢《あ》いまして、にわかの物貰《ものもら》いで勝手は分《わか》りませず……」といいかけて婦人は咽《むせ》びぬ。
これをこの軒の主人《あるじ》に請わば、その諾否いまだ計りがたし。しかるに巡査は肯《き》き入れざりき。
「いかん、おれがいったんいかんといったらなんといってもいかんのだ。たといきさまが、観音様の化身でも、寝ちゃならない、こら、行けというに」
三
「伯父《おじ》さんおあぶのうございますよ」
半蔵門の方より来たりて、いまや堀端《ほりばた》に曲がらんとするとき、一個の年紀《とし》少《わか》き美人はその同伴《つれ》なる老人の蹣跚《まんさん》たる酔歩に向かいて注意せり。渠《かれ》は編み物の手袋を嵌《は》めたる左の手にぶら提灯《ぢょうちん》を携えたり。片手は老人を導きつつ。
伯父さんと謂われたる老人は、ぐらつく足を蹈《ふ》み占めながら、
「なに、だいじょうぶだ。あれんばかしの酒にたべ酔ってたまるものかい。ときにもう何時《なんどき》だろう」
夜は更《ふ》けたり。天色沈々として風騒がず。見渡すお堀端の往来は、三宅《みやけ》坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立《こだ》ちと相連なる煉瓦屋《れんがおく》にて東京のその局部を限れる、この小天地|寂《せき》として、星のみひややかに冴《さ》え渡れり。美人は人ほしげに振り返りぬ。百歩を隔てて黒影あり、靴《くつ》を鳴らしておもむろに来たる。
「あら、巡査《おまわり》さんが来ましたよ」
伯父なる人は顧みて角燈の影を認むるより、直ちに不快なる音調を帯び、
「巡査がどうした、おまえなんだか、うれしそうだな」
と女《むすめ》の顔を瞻《みまも》れる、一眼|盲《し》いて片眼《へんがん》鋭し。女はギックリとしたる様《さま》なり。
「ひどく寂しゅうございますから、もう一時前でもございましょうか」
「うん、そんなものかもしれない、ちっとも腕車《くるま》が見えんからな」
「ようございますわね、もう近いんですもの」
やや無言にて歩を運びぬ。酔える足は捗取《はかど》らで、靴音は早や近づきつ。老人は声高に、
「お香《こう》、今夜の婚礼はどうだった」と少しく笑《え》みを含みて問いぬ。
女は軽《かろ》くうけて、
「たいそうおみごとでございました」
「いや、おみごとばかりじゃあない、おまえはあれを見てなんと思った」
女は老人の顔を見たり。
「なんですか」
「さぞ、うらやましかったろうの」という声は嘲《あざけ》るごとし。
女は答えざりき。渠はこの一冷
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