立ちて左右に寸毫《すんごう》も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。
 制帽の庇《ひさし》の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。
 渠は左右のものを見、上下のものを視《なが》むるとき、さらにその顔を動かし、首を掉《ふ》ることをせざれども、瞳《ひとみ》は自在に回転して、随意にその用を弁ずるなり。
 されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端《ほりばた》の芝生《しばふ》の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇《くちなわ》の這《は》えるがごとき人の踏みしだきたる痕《あと》を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射《さ》せること、その門前なる二|柱《ちゅう》のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋《わらじ》の片足の、霜に凍《い》て附《つ》きて堅くなりたること、路傍《みちばた》にすくすくと立ち併《なら》べる枯れ柳の、一陣の北風に颯《さ》と音していっせいに南に靡《なび》くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷《いちる》の煙の立ち騰《のぼ》ること等、およそ這般《このはん》のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免《のが》るることを得ざりしなり。
 しかも渠は交番を出《い》でて、路に一個の老車夫を叱責《しっせき》し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後《うしろ》を振り返りしことあらず。
 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後《うしろ》には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼《まなこ》に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。
 兇徒《きょうと》あり、白刃を揮《ふる》いて背後《うしろ》より渠を刺さんか、巡査はその呼吸《いき》の根の留まらんまでは、背後《うしろ》に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼《まなこ》の観察の一度達したるところには、たとい藕糸《ぐうし》の孔中といえども一点の懸念をだに遺《のこ》しおかざるを信ずるによれり。
 ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々《ゆうゆう》としてただ前途のみを志すを得《う》るなりけり。
 その靴《くつ》は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音《きょうおん》を送りつつ、
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