気に懸《か》くる様子もなく、
「なあ、お香、さぞおれがことを無慈悲なやつと怨《うら》んでいよう。吾《おり》ゃおまえに怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、おれもこう因業じゃ、いい死に様もしやアしまいが、何、そりゃもとより覚悟の前だ」
 真顔になりて謂《い》う風情《ふぜい》、酒の業《わざ》とも思われざりき。女《むすめ》はようよう口を開き、
「伯父《おじ》さん、あなたまあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」
 と老人の袂《たもと》を曳《ひ》き動かし急ぎ巡査を避けんとするは、聞くに堪えざる伯父の言《ことば》を渠《かれ》の耳に入れじとなるを、伯父は少しも頓着《とんじゃく》せで、平気に、むしろ聞こえよがしに、
「あれもさ、巡査だから、おれが承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金満《かねもち》でも択《えら》んでいて、月給八円におぞ毛をふるったようだが、そんな賤《いや》しい了簡《りょうけん》じゃない。おまえのきらいな、いっしょになると生き血を吸われるような人間でな、たとえばかったい坊だとか、高利貸しだとか、再犯の盗人《ぬすっと》とでもいうような者だったら、おれは喜んで、くれてやるのだ。乞食《こじき》ででもあってみろ、それこそおれが乞食をしておれの財産をみなそいつに譲って、夫婦《めおと》にしてやる。え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえが心《しん》からすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる効《かい》がないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと慾《よく》のないもんじゃあるまいか。そこでいったんおれが断わった上はなんでもあきらめてくれなければならないと、普通《なみ》の人間ならいうところだが、おれがのはそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、おまえにわけもなく断念《あきら》めてもらった日にゃあ、おれが志も水の泡《あわ》さ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんなあさはかなもんじゃあない。なんでも剛胆なやつが危険《けんのん》な目に逢《あ》えば逢うほど、いっそう剛胆になるようで、何かしら邪魔がはいれば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。
前へ 次へ
全14ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング