靴に雲もつけますまい。人は死のうと、溺《おぼ》れようと、峰は崩れよ、麓《ふもと》は埋れよ。剣ヶ峰まで、ただ一飛び。……この鐘を撞《つ》く間《うち》に、盟誓をお破り遊ばすと、諸神、諸仏が即座のお祟《たた》り、それを何となされます!
鯉七 当国には、板取《いたどり》、帰《かえる》、九頭竜《くずりゅう》の流《ながれ》を合せて、日野川の大河。
蟹五郎 美濃の国には、名だたる揖斐《いび》川。
姥 二個《ふたつ》の川の御支配遊ばす。
椿 百万石のお姫様。
姥 我ままは……
一同 相成りませぬ。
姥 お身体《からだ》。
一同 大事にござります。
白雪 ええ、煩《うるさ》いな、お前たち。義理も仁義も心得て、長生《ながいき》したくば勝手におし。……生命《いのち》のために恋は棄てない。お退《ど》き、お退き。
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一同、入乱れて、遮り留《とど》むるを、振払い、掻《か》い潜《くぐ》って、果《はて》は真中《まんなか》に取籠《とりこ》められる。
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お退きというに、え……
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とじれて、鉄杖《てつじょう》を抜けば、白銀《しろがね》の色、月に輝き、一同は、はッと退《の》く。姫、するすると寄り、颯《さっ》と石段を駈上《かけのぼ》り、柱に縋《すが》って屹《きっ》と鐘を――
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諸神、諸仏は知らぬ事、天の御罰《ごばち》を蒙《こうむ》っても、白雪の身よ、朝日影に、情《なさけ》の水に溶くるは嬉しい。五体は粉に砕けようと、八裂《やつざき》にされようと、恋しい人を血に染めて、燃えあこがるる魂は、幽《かすか》な蛍の光となっても、剣ヶ峰へ飛ばいでおこうか。
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と晃然《こうぜん》とかざす鉄杖輝く……時に、月夜を遥《はるか》に、唄の声す。
==ねんねんよ、おころりよ、ねんねの守はどこへいた、山を越えて里へ行《いっ》た、里の土産に何貰うた、でんでん太鼓に笙《しょう》の笛==
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白雪 (じっと聞いて、聞惚《ききほ》れて、火焔《かえん》の袂《たもと》たよたよとなる。やがて石段の下を呼んで)姥、姥、あの声は?……
姥 社《やしろ》の百合でござります。
白雪 おお、美しいお百合さんか、何をしているのだろうね。
姥 恋人の晃の留守に、人形を抱きまして、心遣《こころや》りに、子守唄をうたいまする。
白雪 恋しい人と分れている時は、うたを唄えば紛れるものかえ。
姥 おおせの通りでござります。
一同 姫様《ひいさま》、遊ばして御覧じませぬか。
白雪 思いせまって、つい忘れた。……私がこの村を沈めたら、美しい人の生命《いのち》もあるまい。鐘を撞《つ》けば仇《あだ》だけれども、(と石段を静《しずか》に下りつつ)この家《や》の二人は、嫉《ねたま》しいが、羨《うらやま》しい。姥、おとなしゅうして、あやかろうな。
姥 (はらはらと落涙して)お嬉しゅう存じまする。
白雪 (椿に)お前も唄うかい。
椿 はい、いろいろのを存じております。
鯉七 いや、お腰元衆、いろいろ知ったは結構だが、近ごろはやる==池の鯉よ、緋鯉《ひごい》よ、早く出て麩《ふ》を食え==なぞと、馬鹿にしたようなのはお唄いなさるな、失礼千万、御機嫌を損じよう。
椿 まあ……お前さんが、身勝手な。
一同 (どっと笑う。)――
白雪 人形抱いて、私も唄おう……剣ヶ峰のおつかい。
鯰入 はあ、はあ、はッ。
白雪 お返事を上げよう……一所に――椿や、文箱《ふばこ》をお預り。――衆《みな》も御苦労であった。
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一同敬う。=でんでん太鼓に笙《しょう》の笛、起上り小法師《こぼし》に風車《かざぐるま》==と唄うを聞きつつ、左右に分れて、おいおいに一同入る。陰火全く消ゆ。
月あかりのみ。遠くに犬|吠《ほ》え、近く五位鷺《ごいさぎ》啼《な》く。
お百合、いきを切って、褄《つま》もはらはらと遁《に》げ帰り、小家《こや》の内に駈入《かけい》り、隠る。あとより、村長|畑上嘉伝次《はたがみかでんじ》、村の有志|権藤《ごんどう》管八、小学校教員斎田初雄、村のものともに追掛《おっか》け出づ。一方より、神官代理|鹿見宅膳《しかみたくぜん》、小力士《こりきし》、小烏風呂助《こがらすふろすけ》と、前後《あとさき》に村のもの五人ばかり、烏帽子《えぼし》、素袍《すおう》、雑式《ぞうしき》、仕丁《しちょう》の扮装《いでたち》にて、一頭の真黒《まっくろ》き大牛を率いて出づ。牛の手綱は、小力士これを取る。
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村一 内へ隠れただ、内へ隠れただ。
村二 真暗《まっくら》だあ。
初雄 灯《あかり》を消したって夏の虫だに。
管八 踏込《ふん
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