た見も知らぬ婦《おんな》から、十里|前《さき》の一里塚の松の下の婦《おんな》へ、と手紙を一通ことづかりし事あり。途中気懸りになって、密《そっ》とその封じ目を切って見たれば、==妹御へ、一《ひとつ》、この馬士の腸《はらわた》一組参らせ候《そろ》==としたためられた――何も知らずに渡そうものなら、腹を割《さ》かるる処であったの。
鯰入 はあ、(とどうと尻餅つく。)
蟹五郎 お笑止だ。かッかッかッ。
鯉七 幸《さいわい》、五郎が鋏《はさみ》を持ちます……密《そっ》と封を切って、御覧が可《よ》かろう。
鯰入 やあ、何と、……それを頼みたいばッかりに恥を曝《さら》した世迷言《よまいごと》じゃ。……嬉しや、大目に見て下さるかのう。
蟹五郎 もっとも、もっとも。
鯉七 また……(と声を密《ひそ》めて)恋し床《ゆか》しのお文なれば、そりゃ、われわれどもがなお見たい。
鯰入 (わななきながら、文箱を押頂き、紐を解く。)
[#ここから2字下げ]
鯉、蟹ひしと寄る。蓋《ふた》を放って斉《ひと》しく見る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
鯰入 やあ!
鯉七 ええええ。
蟹五郎 やあやあやあ!
鯰入 文箱《ふばこ》の中は水ばかりよ。
[#ここから2字下げ]
と云う時、さっと、清き水流れ溢《あふ》る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
鯉七 あれあれあれ、姫様《ひいさま》が。
[#ここから2字下げ]
はっと鯰入とともに泳ぐ形に腹ばいになる。蟹は跪《ひざまず》いて手を支《つか》う。――迫上《せりあげ》にて――
夜叉ヶ池の白雪姫。雪なす羅《うすもの》、水色の地に紅《くれない》の焔《ほのお》を染めたる襲衣《したがさね》、黒漆《こくしつ》に銀泥《ぎんでい》、鱗《うろこ》の帯、下締《したじめ》なし、裳《もすそ》をすらりと、黒髪長く、丈に余る。銀《しろがね》の靴をはき、帯腰に玉のごとく光輝く鉄杖《てつじょう》をはさみ持てり。両手にひろげし玉章《たまずさ》を颯《さっ》と繰落して、地摺《ちずり》に取る。
右に、湯尾峠の万年姥《まんねんうば》。針のごとき白髪《しらが》、朽葉色《くちばいろ》の帷子《かたびら》、赤前垂《あかまえだれ》。
左に、腰元、木の芽峠の奥山椿、萌黄《もえぎ》の紋付《もんつき》、文金の高髷《たかまげ》に緋《ひ》の乙女椿の花を挿す。両方に手を支《つ》いて附添う。
十五夜の月出づ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
白雪 ふみを読むのに、月の明《あかり》は、もどかしいな。
姥 御前様《おんまえさま》、お身体《からだ》の光りで御覧ずるが可《よ》うござります。
白雪 (下襲《したがさね》を引いて、袖口の炎を翳《かざ》し、やがて読果てて恍惚《うっとり》となる。)
椿 姫様《ひいさま》。
姥 もし、御前様《おんまえさま》。
白雪 可懐《なつか》しい、優しい、嬉しい、お床しい音信《たより》を聞いた。……姥《うば》、私は参るよ。
姥 たまたま麓《ふもと》へお歩行《ひろい》が。
椿 もうお帰り遊ばしますか。
白雪 どこへ?……(と聞返す。)
姥 お住居《すまい》へ。
白雪 何?
姥 夜叉ヶ池へでござりましょう。
白雪 あれ、お前は何を言う……私の行くのは剣ヶ峰だよ。
一同 剣ヶ峰へ、とおっしゃりますると?
白雪 聞かずと大事ないものを――千蛇ヶ池とは知れた事――このおふみの許《とこ》へさ。(と巻戻し懐中《ふところ》に納めて抱《いだ》く。)
姥 (居直り)また……我儘《わがまま》を仰せられます。お前様、ここに鐘《つりがね》がござります。
白雪 む、(と眦《まなじり》をあげて、鐘楼を屹《きっ》と見る。)
姥 お忘れはなさりますまい。山ながら、川ながら、御前様《おんまえさま》が、お座をお移しなさりますれば、幾万、何千の生類の生命《いのち》を絶たねばなりませぬ。剣ヶ峰千蛇ヶ池の、あの御方様とても同じ事、ここへお運びとなりますと、白山谷は湖になりますゆえ、そのために彼方《かなた》からも御越の儀は叶《かな》いませぬ。――姥《うば》はじめ胸を痛めます。……おいとしい事なれども、是非ない事にござります。
白雪 そんな、理窟を云って……姥、お前は人間の味方かい。
姥 へへ、(嘲笑《あざわら》い)尾のない猿ども、誰がかばいだていたしましょう。……憎ければとて、浅ましければとて、気障《きざ》なればとて、たとい仇敵《かたき》なればと申して、約束はかえられませぬ、誓を破っては相成りませぬ。
白雪 誓盟《ちかい》は、誰がしたえ。
姥 御先祖代々、近くは、両、親御様まで、第一お前様に御遺言ではございませぬか。
白雪 知っています。(とつんとひぞる。)
姥 もし、お前様、その浅ましい人間で
前へ 次へ
全19ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング