て鳴ると悪いね、田圃《たんぼ》の広場へ出て見ようよ。(と小屋のうらに廻って入る。)
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鯰入《ねんにゅう》。花道より、濃い鼠すかしの頭巾《ずきん》、面《つら》一面に黒し。白き二根《にこん》の髯《ひげ》、鼻下より左右にわかれて長く裾《すそ》まで垂る。墨染の法衣《ころも》を絡《まと》い、鰭《ひれ》の形したる鼠の足袋。一本《ひともと》の蘆《あし》を杖《つえ》つき、片手に緋総《ひぶさ》結びたる、美しき文箱《ふばこ》を捧げて、ふらふらと出で来《きた》る。
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鯰入 遥々《はるばる》と参った。……もっての外の旱魃《かんばつ》なれば、思うたより道中難儀じゃ。(と遥《はるか》に仰いで)はあ、争われぬ、峰の空に水気が立つ。嬉しや、……夜叉ヶ池は、あれに近い。(と辿《たど》り寄る。)
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鯉、蟹、前途《ゆくて》に立顕《たちあらわ》る。
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鯉七 誰だ。これへ来たは何ものだ。
蟹五郎 お山の池の一の関、藪沢《やぶさわ》の関守《せきもり》が控えた。名のって通れ。
鯰入 (杖を袖にまき熟《じっ》と視《み》て)さては縁のない衆生でないの。……これは、北陸道無双の霊山、白山、剣ヶ峰千蛇ヶ池の御公達《ごきんだち》より、当国、三国ヶ岳夜叉ヶ池の姫君へ、文づかいに参るものじゃ。
鯉七 おお、聞及んだ黒和尚《くろおしょう》。
蟹五郎 鯰入は御坊《ごぼう》かい。
鯰入 これは、いずれも姫君のお身内な。夜叉ヶ池の御眷属《ごけんぞく》か。よい所で出会いました、案内を頼みましょう。
蟹五郎 お使《つかい》、御苦労です。
鯉七 ちと申つかった事があって、里へ参る路ではあれども、若君のお使、何は措《お》いてもお供しょう。姫様、お喜びの顔が目に見える。われらもお庇《かげ》で面目を施します、さあ、御坊。
蟹五郎 さあ、御坊。
鯰入 (ふと、くなくなとなって得《え》進まず。)しばらく。まず、しばらく。……
鯉七 御坊、お草臥《くたび》れなら、手を取りましょう。
蟹五郎 何と腰を押そうかい。
鯰入 いやいや疲れはしませぬ。尾鰭《おひれ》はのらのらと跳ねるなれども、ここに、ふと、世にも気懸《きがか》りが出来たじゃまで。
鯉七 気懸りとは? 御坊。
鯰入 ここまで辿《たど》って、いざ、お池へ参ると思えば、急にこの文箱《ふばこ》が、身にこたえて、ずんと重うなった。その事じゃ。
鯉七 恋の重荷と言いますの。お心入れの御状なれば、池に近し、御双方お気が通って、自然と文箱に籠《こも》りましたか。
蟹五郎 またかい。姫様《ひいさま》から、御坊へお引出ものなさる。……あの、黄金《こがね》白銀《しろがね》、米、粟《あわ》の湧《わき》こぼれる、石臼《いしうす》の重量《おもみ》が響きますかい。
鯰入 (悄然《しょうぜん》として)いや、私《わし》が身に応《こた》えた処は、こりゃ虫が知らすと見えました。御褒美《ごほうび》に遣わさるる石臼なれば可《よ》けれども==この坊主を輪切りにして、スッポン煮を賞翫《しょうがん》あれ、姫、お昼寝の御目覚ましに==と記してあろうも計られぬ。わあ、可恐《おそろ》しや。(とわなわなと蘆の杖とともにふるい出す。)
鯉七 何でまた、そのような飛んだ事を? 御坊。……
鯰入 いやいや、急に文箱《ふばこ》の重いにつけて、ふと思い出いた私《わし》が身の罪科がござる。さて、言い兼ねましたが打開けて恥を申そう。(と頸《うなじ》をすくめて、頭を撫《な》で)……近頃、此方衆《こなたしゅう》の前ながら、館《やかた》、剣ヶ峰千蛇ヶ池へ――熊に乗って、黒髪を洗いに来た山女の年増《としま》がござった。裸身《はだかみ》の色の白さに、つい、とろとろとなって、面目なや、ぬらり、くらりと鰭を滑らかいてまつわりましたが、フトお目触《めざわ》りとなって、われら若君、もっての外の御機嫌じゃ。――処をこの度の文づかい、泥に潜った閉門中、ただおおせつけの嬉しさに、うかうかと出て参ったが、心付けば、早や鰭の下がくすぽったい。(とまた震う。)
蟹五郎 かッ、かッ、かッ、(と笑い)御坊、おまめです。あやかりたい。
鯰入 笑われますか、情《なさけ》ない。生命《いのち》とまでは無うても、鰭、尾を放て、髯《ひげ》を抜け、とほどには、おふみに遊ばされたに相違はござるまい。……これは一期《いちご》じゃ、何としょう。(と寂しく泣く。)
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鯉、蟹、これを見て囁《ささや》き、頷《うなず》く。
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鯉七 いや、御坊、無い事とも言われませぬ。昔も近江街道を通る馬士《まご》が、橋の上に立っ
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