」
「覚悟があります。」
つれに対すると、客に会釈と、一度に、左右へ言《ことば》を切って、一樹、幹次郎は、すっと出て、一尺ばかり舞台の端に、女の褄《つま》に片膝を乗掛けた。そうして、一度|押戴《おしいただ》くがごとくにして、ハタと両手をついた。
「かなしいな。……あれから、今もひもじいわ。」
寂しく微笑《ほほえ》むと、掻《か》いはだけて、雪なす胸に、ほとんど玲瓏《れいろう》たる乳が玉を欺《あざむ》く。
「御覧なさい――不義の子の罰で、五つになっても足腰が立ちません。」
「うむ、起《た》て。……お起ち、私が起たせる。」
と、かッきと、腕にその泣く子を取って、一樹が腰を引立てたのを、添抱《そえだ》きに胸へ抱いた。
「この豆府娘。」
と嘲《あざけ》りながら、さもいとしさに堪えざるごとく言う下に、
「若いお父さんに骨をお貰い。母さんが血をあげる。」
俯向《うつむ》いて、我と我が口にその乳首を含むと、ぎんと白妙《しろたえ》の生命《いのち》を絞った。ことこと、ひちゃひちゃ、骨なし子の血を吸う音が、舞台から響いた。が、子の口と、母の胸は、見る見る紅玉の柘榴《ざくろ》がこぼれた。
颯《さっ》と色が薄く澄むと――横に倒れよう――とする、反らした指に――茸は残らず這込んで消えた――塗笠を拾ったが、
「お客さん――これは人間ではありません。――紅茸《べにたけ》です。」
といって、顔をかくして、倒れた。顔はかくれて、両手は十ウの爪紅《つまべに》は、世に散る卍《まんじ》の白い痙攣《けいれん》を起した、お雪は乳首を噛切《かみき》ったのである。
一昨年《おととし》の事である。この子は、母の乳が、肉と血を与えた。いま一樹の手に、ふっくりと、且つ健かに育っている。
不思議に、一人だけ生命《いのち》を助かった女が、震災の、あの劫火《ごうか》に追われ追われ、縁あって、玄庵というのに助けられた。その妾《めかけ》であるか、娘分であるかはどうでもいい。老人だから、楽屋で急病が起って、踊の手練《てだれ》が、見真似の舞台を勤めたというので、よくおわかりになろうと思う。何、何、なぜ、それほどの容色《きりょう》で、酒場へ出なかった。とおっしゃるか? それは困る、どうも弱ったな。一樹でも分るまい。なくなった、みどり屋のお雪さんに……お聞き下さい。
[#地から1字上げ]昭和五(一九三○)年九月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、「秋葉ヶ原」は小振りに、「安達《あだち》ヶ原」「日《ひ》ヶ窪」は大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2001年9月17日公開
2005年9月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング