ょう――」
と揚幕へ宙を飛んだ――さらりと落す、幕の隙《すき》に、古畳と破障子《やれしょうじ》が顕《あら》われて、消えた。……思え、講釈だと、水戸黄門が竜神の白頭《しろがしら》、床几《しょうぎ》にかかり、奸賊《かんぞく》紋太夫を抜打に切って棄てる場所に……伏屋《ふせや》の建具の見えたのは、どうやら寂《さ》びた貸席か、出来合の倶楽部などを仮に使った興行らしい。
見た処、大広間、六七十畳、舞台を二十畳ばかりとして、見物は一杯とまではない、が賑《にぎやか》であった。
この暑さに、五つ紋の羽織も脱がない、行儀の正しいのもあれば、浴衣で腕まくりをしたのも居る。――裾模様《すそもよう》の貴婦人、ドレスの令嬢も見えたが、近所居まわりの長屋連らしいのも少くない。印半纏《しるしばんてん》さえも入れごみで、席に劃《しきり》はなかったのである。
で、階子《はしご》の欄干際を縫って、案内した世話方が、
「あすこが透いております。……どうぞ。」
と云った。脇正面、橋がかりの松の前に、肩膝を透いて、毛氈《もうせん》の緋《ひ》が流れる。色紙、短冊でも並びそうな、おさらいや場末の寄席《よせ》気分とは、さすが品《しな》の違った座をすすめてくれたが、裾模様、背広連が、多くその席を占めて、切髪の後室も二人ばかり、白襟で控えて、金泥《きんでい》、銀地の舞扇まで開いている。
われら式、……いや、もうここで結構と、すぐその欄干に附着《くッつ》いた板敷へ席を取ると、更紗《さらさ》の座蒲団《ざぶとん》を、両人に当てがって、
「涼《すずし》い事はこの辺が一等でして。」
と世話方は階子を下りた。が、ひどく蒸暑い。
「御免を被って。」
「さあ、脱ぎましょう。」
と、こくめいに畳んで持った、手拭《てぬぐい》で汗を拭《ふ》いた一樹が、羽織を脱いで引《ひっ》くるめた。……羽織は、まだしも、世の中一般に、頭に被《かぶ》るものと極《きま》った麦藁《むぎわら》の、安値なのではあるが夏帽子を、居かわり立直る客が蹴散《けち》らし、踏挫《ふみひし》ぎそうにする……
また幕間で、人の起居《たちい》は忙しくなるし、あいにく通筋《とおりすじ》の板敷に席を取ったのだから堪《たま》らない。膝の上にのせれば、跨《また》ぐ。敷居に置けば、蹴る、脇へずらせば踏もうとする。
「ちょッ。」
一樹の囁《ささや》く処によれば、こうした能狂言の客の不作法さは、場所にはよろうが、芝居にも、映画場にも、場末の寄席にも比較しようがないほどで。男も女も、立てば、座《すわ》ったものを下人《げにん》と心得る、すなわち頤《あご》の下に人間はない気なのだそうである。
中にも、こども服のノーテイ少女、モダン仕立ノーテイ少年の、跋扈跳梁《ばっこちょうりょう》は夥多《おびただ》しい。……
おなじ少年が、しばらくの間に、一度は膝を跨《また》ぎ、一度は脇腹を小突き、三度目には腰を蹴つけた。目まぐろしく湯呑所《ゆのみじょ》へ通ったのである。
一樹が、あの、指を胸につけ、その指で、左の目をおさえたと思うと、
「毬栗《いがぐり》は果報ものですよ。」
私を見て苦笑《にがわらい》しながら、羽織でくるくると夏帽子を包んで、みしと言わせて、尻にかって、投膝に組んで掌《てのひら》をそらした。
「がきに踏まれるよりこの方がさばさばします。」
何としても、これは画工《えかき》さんのせいではない――桶屋《おけや》、鋳掛屋でもしたろうか?……静かに――それどころか!……震災|前《ぜん》には、十六七で、渠《かれ》は博徒の小僧であった。
――家、いやその長屋は、妻恋坂下《つまごいざかした》――明神の崖うらの穴路地で、二階に一室《ひとま》の古屋《ふるいえ》だったが、物干ばかりが新しく突立《つった》っていたという。――
これを聞いて、かねて、知っていたせいであろう。おかしな事には、いま私たちが寄凭《よりかか》るばかりにしている、この欄干が、まわりにぐるりと板敷を取って、階子壇《はしごだん》を長方形の大穴に抜いて、押廻わして、しかも新しく切立っているので、はじめから、たとえば毛利一樹氏、自叙伝中の妻恋坂下の物見に似たように思われてならなかったのである。
「――これはこのあたりのものでござる――」
藍《あい》の長上下《なががみしも》、黄の熨斗目《のしめ》、小刀をたしなみ、持扇《もちおうぎ》で、舞台で名のった――脊の低い、肩の四角な、堅くなったか、癇《かん》のせいか、首のやや傾《かし》いだアドである。
「――某《それがし》が屋敷に、当年はじめて、何とも知れぬくさびらが生えた――ひたもの取って捨つれども、夜《よ》の間には生え生え、幾たび取ってもまたもとのごとく生ゆる、かような不思議なことはござらぬ――」
鷺玄庵、シテの出る前に、この話の必要上、
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