《やじり》を飛ばすらしい。けれども、五十歩にたりぬ向うの辻の柳も射ない。のみならず、矢竹の墨が、ほたほたと太く、蓑《みの》の毛を羽にはいだような形を見ると、古俳諧にいわゆる――狸を威《おど》す篠張《しのはり》の弓である。
 これもまた……面白い。
「おともしましょう、望む処です。」
 気競《きお》って言うまで、私はいい心持に酔っていた。

「通りがかりのものです。……臨時に見物をしたいと存じますのですが。」
「望む所でございます。」
 と、式台正面を横に、卓子《テエブル》を控えた、受附世話方の四十年配の男の、紋附の帷子《かたびら》で、舞袴《まいばかま》を穿《は》いたのが、さも歓迎の意を表するらしく気競《きお》って言った。これは私たちのように、酒気《さけけ》があったのでは決してない。
 切符は五十銭である。第一、順と見えて、六十を越えたろう、白髪《しらが》のお媼《ばあ》さんが下足《げた》を預るのに、二人分に、洋杖《ステッキ》と蝙蝠傘を添えて、これが無料で、蝦蟇口《がまぐち》を捻《ひね》った一樹の心づけに、手も触れない。
 この世話方の、おん袴に対しても、――(たかが半円だ、ご免を被って大きく出ておけ。)――軽少過ぎる。卓子《テエブル》を並べて、謡本少々と、扇子が並べてあったから、ほんの松の葉の寸志と見え、一樹が宝生雲の空色なのを譲りうけて、その一本を私に渡し、
「いかが。」
「これも望む処です。」
 つい私は莞爾《にっこり》した。扇子店《おうぎみせ》の真上の鴨居《かもい》に、当夜の番組が大字《だいじ》で出ている。私が一わたり読み取ったのは、唯今《ただいま》の塀下ではない、ここでの事である。合せて五番。中に能の仕舞もまじって、序からざっと覚えてはいるが――狸の口上らしくなるから一々は記すまい。必要なのだけを言おう。
 必要なのは――魚説法――に続く三番目に、一《ひとつ》、茸《きのこ》、(くさびら。)――鷺《さぎ》、玄庵――の曲である。
 道の事はよくは知らない。しかし鷺の姿は、近ごろ狂言の流《ながれ》に影は映らぬと聞いている。古い隠居か。むかしものの物好《ものずき》で、稽古《けいこ》を積んだ巧者が居て、その人たち、言わば素人の催しであろうも知れない。狸穴近所には相応《ふさわ》しい。が、私のいうのは流儀の事ではない。曲である。
 この、茸――
 慌《あわただ》しいまでに、一樹が狂言を見ようとしたのも、他《ほか》のどの番組でもなく、ただこれあるがためであろう、と思う仔細《しさい》がある。あたかも一樹が、扇子のせめを切りながら、片手の指のさきで軽く乳のあたりと思う胸をさすって、返す指で、左の目を圧《おさ》えたのを見るにつけても。……
 一樹を知ったほどのもので、画工《えかき》さんの、この癖を認めないものはなかろう。ちょいと内証で、人に知らせないように遣《や》る、この早業《はやわざ》は、しかしながら、礼拝と、愛撫と、謙譲と、しかも自恃《ほこり》をかね、色を沈静にし、目を清澄にして、胸に、一種深き人格を秘したる、珠玉を偲《しの》ばせる表顕《ひょうげん》であった。
 こういううちにも、舞台――舞台は二階らしい。――一間四面の堂の施主が、売僧《まいす》の魚説法を憤って、
「――おのれ何としょうぞ――」
「――打たば打たしめ、棒鱈《ぼうだら》か太刀魚《たちうお》でおうちあれ――」
「――おのれ、また打擲《ちょうちゃく》をせいでおこうか――」
「――ああ、いかな、かながしらも堪《たま》るものではない――」
「――ええ、苦々しいやつかな――」
「――いり海老《えび》のような顔をして、赤目張《あかめば》るの――」
「――さてさて憎いやつの――」
 相当の役者と見える。声が玄関までよく通って、その間に見物の笑声《わらいごえ》が、どッと響いた。
「さあ、こちらへどうぞ、」
「憚《はばか》り様。」
 階子段《はしごだん》は広い。――先へ立つ世話方の、あとに続く一樹、と並んで、私の上りかかる処を、あがり口で世話方が片膝をついて、留まって、「ほんの仮舞台、諸事不行届きでありまして。」
 挨拶《あいさつ》するのに、段を覗込《のぞきこ》んだ。その頭と、下から出かかった頭が二つ……妙に並んだ形が、早や横正面に舞台の松と、橋がかりの一二三の松が、人波をすかして、揺れるように近々と見えるので……ややその松の中へ、次の番組の茸が土を擡《もた》げたようで、余程おかしい。……いや、高砂《たかさご》の浦の想われるのに対しては、むしろ、むくむくとした松露であろう。
 その景色の上を、追込まれの坊主が、鰭《ひれ》のごとく、キチキチと法衣《ころも》の袖《そで》を煽《あお》って、
「――こちゃただ飛魚《とびうお》といたそう――」
「――まだそのつれを言うか――」
「――飛魚しょう、飛魚し
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