一樹――本名、幹次郎《みきじろう》さんの、その妻恋坂の時分の事を言わねばならぬ。はじめ、別して酔った時は、幾度も画工《えかき》さんが話したから、私たちはほとんどその言葉通りといってもいいほど覚えている。が、名を知られ、売れッこになってからは、気振《けぶ》りにも出さず、事の一端に触れるのをさえ避けるようになった。苦心談、立志談は、往々にして、その反対の意味の、自己|吹聴《ふいちょう》と、陰性の自讃、卑下高慢になるのに気附いたのである。談中――主なるものは、茸《きのこ》で、渠《かれ》が番組の茸を遁《に》げて、比羅《びら》の、蛸《たこ》のとあのくたらを説いたのでも、ほぼ不断の態度が知れよう。
 但し、以下の一齣《ひとくさり》は、かつて、一樹、幹次郎が話したのを、ほとんどそのままである。

「――その年の残暑の激しさといってはありませんでした。内中皆|裸体《はだか》です。六畳に三畳、二階が六畳という浅間ですから、開放しで皆見えますが、近所が近所だから、そんな事は平気なものです。――色気も娑婆気《しゃばけ》も沢山な奴等《やつら》が、たかが暑いくらいで、そんな状《ざま》をするのではありません。実はまるで衣類がない。――これが寒中だと、とうの昔凍え死んで、こんな口を利くものは、貴方がたの前に消えてしまっていたんでしょうね。
 男はまだしも、婦《おんな》もそれです。ご新姐《しんぞ》――いま時、妙な呼び方で。……主人が医師《いしゃ》の出来損いですから、出来損いでも奥さん。……さしあたってな小博打《こばくち》が的《あて》だったのですから、三下《さんした》の潜《もぐ》りでも、姉さん。――話のついでですが、裸の中の大男の尻の黄色なのが主人で、汚れた畚褌《もっこふんどし》をしていたのです、褌が畚じゃ、姉《あね》ごとは行きません。それにした処で、姉《あね》さんとでも云うべき処を、ご新姐――と皆が呼びましたのは。――
 万世橋向うの――町の裏店《うらだな》に、もと洋服のさい取を萎《なや》して、あざとい碁会所をやっていた――金六、ちゃら金という、野幇間《のだいこ》のような兀《はげ》のちょいちょい顔を出すのが、ご新姐、ご新姐という、それがつい、口癖になったんですが。――膝股《ひざもも》をかくすものを、腰から釣《つる》したように、乳を包んだだけで。……あとはただ真白《まっしろ》な……冷い……のです。冷い、と極《き》めたのは妙ですけれども、飢えて空腹《ひだる》くっているんだから、夏でも火気はありますまい。死《しに》ぎわに熱でも出なければ――しかし、若いから、そんなに痩《や》せ細ったほどではありません。中肉で、脚のすらりと、小股《こまた》のしまった、瓜《うり》ざね顔で、鼻筋の通った、目の大《おおき》い、無口で、それで、ものいいのきっぱりした、少し言葉尻の上る、声に歯ぎれの嶮《けん》のある、しかし、気の優しい、私より四つ五つ年上で――ただうつくしいというより仇《あだ》っぽい婦人《おんな》だったんです。何しろその体裁ですから、すなおな髪を引詰《ひッつ》めて櫛巻《くしまき》でいましたが、生際が薄青いくらい、襟脚が透通って、日南《ひなた》では消えそうに、おくれ毛ばかり艶々《つやつや》として、涙でしょう、濡れている。悲惨な事には、水ばかり飲むものだから、身籠《みごも》ったようにかえってふくれて、下腹のゆいめなぞは、乳の下を縊《くび》ったようでしたよ。
 空腹《すきはら》にこたえがないと、つよく紐《ひも》をしめますから、男だって。……
 お雪さん――と言いました。その大切な乳をかくす古手拭は、膚《はだ》に合った綺麗好きで、腰のも一所に、ただ洗いただ洗いするんですから、油旱《あぶらでり》の炎熱で、銀粉のようににじむ汗に、ちらちらと紗《しゃ》のように靡《なび》きました。これなら干ぼしになったら、すぐ羽にかわって欄間を飛ぶだろうと思ったほどです。いいえ、天人なぞと、そんな贅沢《ぜいたく》な。裏長屋ですもの、くさばかげろうの幽霊です。
 その手拭が、娘時分に、踊のお温習《さらい》に配ったのが、古行李《ふるこうり》の底かなにかに残っていたのだから、あわれですね。
 千葉だそうです。千葉の町の大きな料理屋、万翠楼《ばんすいろう》の姉娘が、今の主人の、その頃医学生だったのと間違って。……ただ、それだけではないらしい。学生の癖に、悪く、商売人じみた、はなを引く、賭碁《かけご》を打つ。それじゃ退学にならずにいません。佐原の出で、なまじ故郷が近いだけに、外聞かたがた東京へ遁出《にげだ》した。姉娘があとを追って遁げて来て――料理屋の方は、もっとも継母だと聞きましたが――帰れ、と云うのを、男が離さない。女も情を立てて帰らないから、両方とも、親から勘当になったんですね、親類義絶――つまるところ。
 一枚
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