ような事が起ったんです。――それは受取った荷物……荷は籠《かご》で、茸《きのこ》です。初茸《はつたけ》です。そのために事が起ったんです。
 通り雨ですから、すぐに、赫《かっ》と、まぶしいほどに日が照ります。甘い涙の飴《あめ》を嘗《な》めた勢《いきおい》で、あれから秋葉ヶ原をよろよろと、佐久間町の河岸《かし》通り、みくら橋、左衛門橋。――とあの辺から両側には仕済《しすま》した店の深い問屋が続きますね。その中に――今思うと船宿でしょう。天井に網を揃えて掛けてあるのが見えました。故郷の市場の雑貨店で、これを扱うものがあって、私の祖父《じじい》――地方《いなか》の狂言師が食うにこまって、手内職にすいた出来上がりのこの網を、使《つかい》で持って行ったのを思い出して――もう国に帰ろうか――また涙が出る。とその涙が甘いのです。餅か、団子か、お雪さんが待っていよう。
(一銭五厘です。端書代が立替えになっておりますが。)
(つい、あの、持って来ません。)
(些細《ささい》な事ですが、店のきまりはきまりですからな。)
 年の少《わか》い手代は、そっぽうを向く。小僧は、げらげらと笑っている。
(貸して下さい。)
(お貸し申さないとは申しませんが。)
(このしるしを置いて行きます。貸して下さい。)
 私は汗じみた手拭を、懐中《ふところ》から――空腹《すきはら》をしめていたかどうかはお察し下さい――懐中から出すと、手代が一代の逸話として、よい経験を得たように、しかし、汚《きたな》らしそうに、撮《つま》んで拡《ひろ》げました。
(よう!)と反《そ》りかえった掛声をして、
(みどり屋、ゆき。――荷は千葉と。――ああ、万翠楼だ。……医師《いしゃ》と遁《に》げた、この別嬪《べっぴん》さんの使ですかい、きみは。……ぼくは店用で行って知ってるよ。……果報ものだね、きみは。……可愛がってくれるだろう。雪白肌の透綾娘《すきあやむすめ》は、ちょっと浮気ものだというぜ。)
 と言やあがった……
 その透綾娘は、手拭の肌襦袢《はだじゅばん》から透通った、肩を落して、裏の三畳、濡縁の柱によっかかったのが、その姿ですから、くくりつけられでもしたように見えて、ぬの一重の膝の上に、小児《こども》の絵入雑誌を拡げた、あの赤い絵の具が、腹から血ではないかと、ぞっとしたほど、さし俯向《うつむ》いて、顔を両手でおさえていました。――やっと小僧が帰った時です。――
(来たか、荷物は。)
 と二階から、力のない、鼻の詰《つま》った大《おおき》な声。
(初茸ですわ。)
 と、きっぱりと、投上げるように、ご新姐が返事をすると、
(あああ、銭《ぜに》にはならずか――食おう。)
 と、また途方もない声をして、階子段《はしごだん》一杯に、大《おおきな》な男が、褌《ふんどし》を真正面《まっしょうめん》に顕《あら》われる。続いて、足早に刻《きざ》んで下りたのは、政治狂の黒い猿股《さるまた》です。ぎしぎしと音がして、青黄色に膨れた、投機家が、豚を一匹、まるで吸った蛭《ひる》のように、ずどうんと腰で摺《ず》り、欄干に、よれよれの兵児帯《へこおび》をしめつけたのを力綱に縋《すが》って、ぶら下がるように楫《かじ》を取って下りて来る。脚気《かっけ》がむくみ上って、もう歩けない。
 小児《こども》のつかった、おかわを二階に上げてあるんで、そのわきに西瓜《すいか》の皮が転がって、蒼蠅《あおばえ》が集《たか》っているのを視《み》た時ほど、情《なさけ》ない思いをした事は余りありません。その二階で、三人、何をしているかというと、はなをひくか、あの、泥石の紙の盤で、碁を打っていたんですがね。
 欠けた瀬戸火鉢は一つある。けれども、煮ようたって醤油《しょうゆ》なんか思いもよらない。焼くのに、炭の粉《こ》もないんです。政治狂が便所わきの雨樋《あまどい》の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、溢出《はみで》ようが、皆|引掴《ひッつか》んで頬張る気だから、二十ばかり初茸《はつたけ》を一所に載せた。残らず、薄樺色《うすかばいろ》の笠を逆《さかさ》に、白い軸を立てて、真中《まんなか》ごろのが、じいじい音を立てると、……青い錆《さび》が茸の声のように浮いて動く。
(塩はどうした。)
(ござんせん。)
(魚断《うおだち》、菜断《さいだち》、穀断《こくだち》と、茶断《ちゃだち》、塩断《しおだち》……こうなりゃ鯱立《しゃっちょこだ》ちだ。)
 と、主人《あるじ》が、どたりと寝て、両脚を大の字に開くと、
(あああ、待ちたまえ、逆《さかさ》になった方が、いくらか空腹《ひだる》さが凌《しの》げるかも知れんぞ。経験
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