ん》が身のためだ。)とこうです。どの道そんな蕎麦だから、伸び過ぎていて、ひどく中毒《あた》って、松住町《まつずみちょう》辺をうなりながら歩くうちに、どこかへ落してしまいましたが。
――今度は、どこで倒れるだろう。さあ使いに行く。着るものは――
私の田舎の叔母が一枚送ってくれた単衣《ひとえ》を、病人に着せてあるのを剥《は》ぐんです。その臭さというものは。……とにかく妻恋坂下の穴を出ました。
こんなにしていて、どうなるだろう。櫓《やぐら》のような物干を見ると、ああ、いつの間にか、そこにも片隅に、小石が積んであるんです。何ですか、明神様の森の空が、雲で真暗《まっくら》なようでした。
鰻屋《うなぎや》の神田川――今にもその頃にも、まるで知己《ちかづき》はありませんが、あすこの前を向うへ抜けて、大通りを突切《つっき》ろうとすると、あの黒い雲が、聖堂の森の方へと馳《はし》ると思うと、頭の上にかぶさって、上野へ旋風《つむじかぜ》を捲《ま》きながら、灰を流すように降って来ました。ひょろひょろの小僧は、叩きつけられたように、向う側の絵草紙屋の軒前《のきさき》へ駆込んだんです。濡れるのを厭《いと》いはしません。吹倒されるのが可恐《おそろし》かったので、柱へつかまった。
一軒隣に、焼芋屋がありましてね。またこの路地裏の道具屋が、私の、東京ではじめて草鞋《わらじ》を脱いだ場所で、泊めてもらった。しかもその日、晩飯を食わせられる時、道具屋が、めじの刺身を一臠《ひときれ》箸《はし》で挟んで、鼻のさきへぶらさげて、東京じゃ、これが一皿、じゃあない、一臠、若干金《いくら》につく。……お前たちの二日分の祭礼《まつり》の小遣いより高い、と云って聞かせました。――その時以来、腹のくちい、という味を知らなかったのです。しかし、ぼんやり突立《つった》っては、よくこの店を覗《のぞ》いたものです。――横なぐりに吹込みますから、古風な店で、半分|蔀《ひよけ》をおろしました。暗くなる……薄暗い中に、颯《さっ》と風に煽《あお》られて、媚《なま》めかしい婦《おんな》の裙《もすそ》が燃えるのかと思う、あからさまな、真白《まっしろ》な大きな腹が、蒼《あお》ざめた顔して、宙に倒《さかさま》にぶら下りました。……御存じかも知れません、芳年《よしとし》の月百姿の中の、安達《あだち》ヶ原、縦絵|二枚続《にまいつづき》の孤家《ひとつや》で、店さきには遠慮をする筈《はず》、別の絵を上被《うわっぱ》りに伏せ込んで、窓の柱に掛けてあったのが、暴風雨《あらし》で帯を引裂いたようにめくれたんですね。ああ、吹込むしぶきに、肩も踵《かかと》も、わなわな震えている。……
雨はかぶりましたし、裸のご新姐の身の上を思って……」
(――語ってここを言う時、その胸を撫でて、目を押える、ことをする。)
「まぶたを溢《あふ》れて、鼻柱をつたう大粒の涙が、唇へ甘く濡れました。甘い涙。――いささか気障《きざ》ですが、うれしい悲しいを通り越した、辛い涙、渋い涙、鉛の涙、男女の思迫《おもいせま》った、そんな味は覚えがない、ひもじい時の、芋の涙、豆の涙、餡《あん》ぱんの涙、金鍔《きんつば》の涙。ここで甘い涙と申しますのは。――結膜炎だか、のぼせ目だか、何しろ弱り目に祟《たた》り目でしょう。左の目が真紅《まっか》になって、渋くって、辛くって困りました時、お雪さんが、乳を絞って、つぎ込んでくれたのです。
(――かなしいなあ――)
走りはしません、ぽたぽたぐらい。一人児《ひとりっこ》だから、時々飲んでいたんですが、食が少いから涸《か》れがちなんです。私を仰向《あおむ》けにして、横合から胸をはだけて、……まだ袷《あわせ》、お雪さんの肌には微《かす》かに紅《くれない》の気《け》のちらついた、春の末でした。目をはずすまいとするから、弱腰を捻《ひね》って、髷《まげ》も鬢《びん》もひいやりと額にかかり……白い半身が逆になって見えましょう。……今時……今時……そんな古風な、療治を、禁厭《まじない》を、するものがあるか、とおっしゃいますか。ええ、おっしゃい。そんな事は、まだその頃ありました、精盛薬館、一二《おいちに》を、掛売で談ずるだけの、余裕があっていう事です。
このありさまは、ちょっと物議になりました。主人《あるじ》の留守で。二階から覗いた投機家が、容易ならぬ沙汰をしたんですが、若い燕だか、小僧の蜂だか、そんな詮議《せんぎ》は、飯を食ったあとにしようと、徹底した空腹です。
それ以来、涙が甘い。いまそのこぼれるにつけても、さかさに釣られた孤家《ひとつや》の女の乳首が目に入って来そうで、従って、ご新姐の身の上に、いつか、おなじ事でもありそうでならなかった。――予感というものはあるものでしょうか。
その日の中《うち》に、果しておなじ
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