たんだから、このしみばかりでも痛事《いたごと》ですね。その時です、……洗いざらい、お雪さんの、蹴出しと、数珠と、短刀の人身御供《ひとみごくう》は――
 まだその上に、無慙《むざん》なのは、四歳《よッつ》になる男の児《こ》があったんですが、口癖に――おなかがすいた――おなかがすいた――と唱歌のように唱《うた》うんです。
(――かなしいなあ――)
 お雪さんは、その、きっぱりした響く声で。……どうかすると、雨が降過ぎても、
(――かなしいなあ――)
 と云う一つ癖があったんです。尻上りに、うら悲しい……やむ事を得ません、得ませんけれども、悪い癖です。心得なければ不可《いけ》ませんね。
 幼い時聞いて、前後《あとさき》うろ覚えですが、私の故郷の昔話に、(椿《つばき》ばけ――ばたり。)農家のひとり子で、生れて口をきくと、(椿ばけ――ばたり。)と唖《おし》の一声ではないけれども、いくら叱っても治らない。弓が上手で、のちにお城に、もののけがあって、国の守《かみ》が可恐《おそろし》い変化《へんげ》に悩まされた時、自から進んで出て、奥庭の大椿に向っていきなり矢を番《つが》えた。(椿ばけ――ばたり。)と切って放すと、枝も葉も萎々《なえなえ》となって、ばたり。で、国のやみが明《あかる》くなった――そんな意味だったと思います。言葉は気をつけなければ不可《いけ》ませんね。
 食不足で、ひくひく煩っていた男の児《こ》が七転八倒します。私は方々の医師《いしゃ》へ駆附けた。が、一人も来ません。お雪さんが、抱いたり、擦《さす》ったり、半狂乱でいる処へ、右の、ばらりざんと敗北した落武者が這込《はいこ》んで来た始末で……その悲惨さといったらありません。
 食あたりだ。医師《いしゃ》のお父さんが、診察をしたばかりで、薮《やぶ》だからどうにも出来ない。あくる朝なくなりました。きらずに煮込んだ剥身《むきみ》は、小指を食切るほどの勢《いきおい》で、私も二つ三つおすそわけに預るし、皆も食べたんですから、看板の※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》のせいです。幾月ぶりかの、お魚だから、大人は、坊やに譲ったんです。その癖、出がけには、坊や、晩には玉子だぞ。お土産は電車だ、と云って出たんですのに。――
 お雪さんは、歌磨の絵の海女《あま》のような姿で、鮑《あわび》――いや小石を、そッと拾っては、鬼門をよけた雨落《あまおち》の下へ、積み積みしていたんですね。
(――かなしいなあ――)
 めそめそ泣くような質《たち》ではないので、石も、日も、少しずつ積りました。
 ――さあ、その残暑の、朝から、旱《て》りつけます中へ、端書《はがき》が来ましてね。――落目もこうなると、めったに手紙なんぞ覗《のぞ》いた事のないのに、至急、と朱がきのしてあったのを覚えています。ご新姐あてに、千葉から荷が着いている。お届けをしようか、受取りにおいで下さるか、という両国辺の運送問屋から来たのでした。
 品物といえば釘の折でも、屑屋《くずや》へ売るのに欲《ほし》い処。……返事を出す端書が買えないんですから、配達をさせるなぞは思いもよらず……急いで取りに行く。この使《つかい》の小僧ですが、二日ばかりというもの、かたまったものは、漬菜《つけな》の切れはし、黒豆一粒入っていません。ほんとうのひもじさは、話では言切れない、あなた方の腹がすいたは、都合によってすかせるのです。いいえ、何も喧嘩をするのじゃありません、おわかりにならんと思いますから、よしますが。
 もっとも、その前日も、金子《かね》無心の使に、芝の巴町《ともえちょう》附近|辺《あたり》まで遣られましてね。出来ッこはありません。勿論、往復とも徒歩《てく》なんですから、帰途《かえり》によろよろ目が眩《くら》んで、ちょうど、一つ橋を出ようとした時でした。午砲《どん》!――あの音で腰を抜いたんです。土を引掻《ひッか》いて起上がる始末で、人間もこうなると浅間しい。……行暮れた旅人が灯をたよるように、山賊の棲《す》でも、いかさま碁会所でも、気障《きざ》な奴でも、路地が曲りくねっていても、何となく便《たよ》る気が出て。――町のちゃら金の店を覗くと、出窓の処に、忠臣蔵の雪の夜討の炭部屋の立盤子《たてばんこ》を飾って、碁盤が二三台。客は居ません。ちゃら金が、碁盤の前で、何だか古い帳面を繰っておりましたっけ。(や、お入り。)金歯で呼込んで、家内が留守で蕎麦《そば》を取る処だ、といって、一つ食わしてくれました。もり蕎麦は、滝の荒行ほど、どっしりと身にこたえましたが、そのかわり、ご新姐――お雪さんに、(おい、ごく内証《ない》だぜ。)と云って、手紙を托《ことづ》けたんです。菫色《すみれいろ》の横封筒……いや、どうも、その癖、言う事は古い。(いい加減に常盤御前《ときわごぜ
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング