て、五分々々か、のう、はははは、」
 と髯の中に、唇が薄く動いて、せせら笑う。
 早瀬は軽く微笑《ほほえ》みながら、
「まあ、お掛けなさいまし。」
 と腰掛けた傍《かたわら》を指で弾《はじ》いた。
「や、ここで可《え》え。話は直《じ》き分る。」と英臣は杖《ステッキ》を脇挟んで、葉巻を銜《くわ》えた。
「早解りは結構です、そこで先日のお返事は?」
「どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。」
「申しましょうかね。」
「うむ、」
 と吸いつけた唾《つば》を吐く。
「ここで極《きめ》て下さいましょうか。過日《このあいだ》、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ竜爪山《りゅうそうざん》へでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。」
「余計な事を言わんで、簡単に申せ。」
 と今の諧謔《かいぎゃく》にやや怒気を含んで、
「私《わし》が対手《あいて》じゃ、立処《たちどころ》に解決してやる!」
「第一!」
 と言った……主税の声は朗《ほがらか》であった。
「貴下《あなた》の奥さんを離縁なさい。」


     隼

       五十三

 一言亡状《いちげんぼうじょう》を極めたにも係わらず、英臣はかえって物静《ものしずか》に聞いた。
「なぜか。」
「馬丁《べっとう》貞造と不埒《ふらち》して、お道さんを産んだからです。」
 強いて言《ことば》を落着けて、
「それから、」
「第二、お道さんを私に下さい。」
「何でじゃ?」
「私と、いい中です。」
「むむ、」
 と口の内で言った。
「それから、」
「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」
「なぜな。」
「私と約束しました。」
「誰と?」
 はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、
「私とさ。」
「うむ、それから?」
「第四、病院をお潰《つぶ》しなさい。」
「なぜかい。」
「医学士が毒を装《も》ります。」
「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。
「河野家の家庭は、かくのごとく汚《けが》れ果てた。……最早や、忰《せがれ》の嫁を娶《と》るのに、他《ひと》の大切な娘の、身分系図などを検《しら》べるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。
 就中《なかんずく》、独逸文学者酒井俊蔵先生の令嬢に対して、身の程も弁えず、無礼を仕《つかまつ》りました申訳が無い、とお詫びなさい。
 そうすりゃ大概、河野家は支離滅裂、貴下のいわゆる家族主義の滅亡さ。そこで敗軍した大将だ。貴下は安東村の貞造の馬小屋へでも引込《ひっこ》むんだ。ざっと、まあ、これだけさ。」
 と帽子で、そよそよと胸を煽《あお》いだ。
 時に蝕しつつある太陽を、いやが上に蔽《おお》い果さんずる修羅の叫喚《さけび》の物凄《ものすさまじ》く響くがごとく、油蝉の声の山の根に染み入る中に、英臣は荒らかな声して、
「発狂人!」
「ああ、狂人《きちがい》だ、が、他《ほか》の気違は出来ないことを云って狂うのに、この狂気《きちがい》は、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。」
 舌もやや釣る、唇を蠢《うごめ》かしつつ、
「で、私《わし》がその請求を肯《き》かんけりゃ、汝《きさま》、どうすッとか言うんじゃのう。」と、太息を吐《つ》いたのである。
「この毒薬の瓶をもって、ちと古風な事だけれど、恐れながらと、遣《や》ろうと云うのだ。それで大概、貴下の家は寂滅でしょうぜ。」
 英臣は辛うじて罵《ののし》り得た。
「騙《かたり》じゃのう、」
「騙ですとも。」
「強請《ゆすり》じゃが。汝《きさま》、」
「強請ですとも。」
「それで汝《きさま》人間か。」
「畜生でしょうか。」
「それでも独逸語の教師か。」
「いいえ、」
「学者と言われようか。」
「どういたしまして、」
「酒井の門生か。」
「静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。」
「何、騙じゃ、」
「強請です。畜生です。そして河野家の仇《あだ》なんです。」
「黙れ!」
 と一喝、虎のごとき唸《うなり》をなして、杖《ステッキ》をひしと握って、
「無礼だ。黙れ、小僧。」
「何だ、小父さん。」
 と云った。英臣は身心ともに燃ゆるがごとき中にも、思わず掉下《ふりおろ》す得物を留めると、主税は正面へ顔を出して、呵々《からから》と笑って、
「おい、己《おれ》を、まあ、何だと思う。浅草|田畝《たんぼ》に巣を持って、観音様へ羽を伸《の》すから、隼《はやぶさ》の力《りき》と綽名《あだな》アされた、掏摸《すり》だよ、巾着切《きんちゃくきり》だよ。はははは、これからその気で附合いねえ、こう、頼むぜ、小父さん。」

       五十四

「己《おれ》が十二の小僧の時よ。朝露の林を分けて、塒《ねぐら》を奥山へ出たと思いねえ。蛙《けえろ》の面《つら》へ打《ぶっ》かけるように、仕かけの噴水が、白粉《おしろい》の禿げた霜げた姉さんの顔を半分に仕切って、洒亜《しゃあ》と出ていら。そこの釣堀に、四人|連《づれ》、皆洋服で、まだ酔の醒《さ》めねえ顔も見えて、帽子は被《かぶ》っても大童《おおわらわ》と云う体だ。芳原げえりが、朝ッぱら鯉を釣っているじゃねえか。
 釣ってるのは鯉だけれど、どこのか田畝の鰌《どじょう》だろう。官員で、朝帰りで、洋服で、釣ってりゃ馬鹿だ、と天窓《あたま》から呑んでかかって、中でも鮒《ふな》らしい奴の黄金鎖《きんぐさり》へ手を懸ける、としまった! この腕を呻《うん》と握られたんだ。
 掴《つかま》えて打《ぶ》ちでもする事か、片手で澄まし込んで釣るじゃねえか。釣った奴を籠へ入れて、(小僧これを持って供をしろ。)ッて、一睨《ひとにらみ》睨まれた時は、生れて、はじめて縮《すく》んだのさ。
 こりゃ成程ちょろッかな(隼)の手でいかねえ。よく顔も見なかったのがこっちの越度《おちど》で、人品骨柄を見たって知れる――その頃は台湾の属官だったが、今じゃ同一所《おんなじとこ》の税関長、稲坂と云う法学士で、大鵬《たいほう》のような人物、ついて居た三人は下役だね。
 後で聞きゃ、ある時も、結婚したての細君を連れて、芳原を冷かして、格子で馴染《なじみ》の女に逢って、
(一所に登楼《あが》るぜ。)と手を引いて飛込んで、今夜は情女《いろおんな》と遊ぶんだから、お前は次の室《ま》で待ってるんだ、と名代《みょうだい》へ追いやって、遊女《おいらん》と寝たと云う豪傑さね。
 それッきり、細君も妬《や》かないが、旦那も嫉気《じんすけ》少しもなし。
 いつか三月ばかり台湾を留守にして、若いその細君と女中と書生を残して置くと、どこの婦《おんな》も同一《おんなじ》だ。前《ぜん》から居る下役の媽々《かかあ》ども、いずれ夫人とか、何子とか云う奴等が、女同士、長官の細君の、年紀《とし》の若いのを猜《そね》んだやつさ。下女に鼻薬を飼って讒言《つげぐち》をさせたんだね。その法学士が内へ帰ると、(お帰んなさいまし、さて奥様はひょんな事。)と、書生と情交《わけ》があるように言いつける。とよくも聞かないで、――(出て行《ゆ》け。)――と怒鳴り附けた。
 誰に云ったと思います。細君じゃない。その下女にさ。
 どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人|業《わざ》じゃねえような、河野さん、貴下のお婿|様《さん》連にゃ、こういうのは有りますまい。
 己が掴《つかま》ったのはその人だ。首を縮《すく》めて、鯉の入《へえ》った籠を下げて、(魚籃《ぎょらん》)の丁稚《でっち》と云う形で、ついて行《ゆ》くと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで歩行《ある》いてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。
 学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。(奥さん、これにもお膳を下さい。)と掏摸《すり》にも、同一《おんなじ》ように、吸物膳。
 女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだ少《わか》かった――縮緬《ちりめん》のお羽織で、膳を据えて下すって、(遠慮をしないで召食《めしあが》れ、)と優しく言って下すった時にゃ、己《おら》あ始めて涙が出たのよ。
 先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。(何だい、)と聞かれたので、法学士が大口開いて(掏摸だよ。)と言われたので、ふッつり留《や》める気になったぜ、犬畜生だけ、情《なさけ》には脆《もろ》いのよ。
 法学士が、(さあ、使賃だ、祝儀だ、)と一円出して、(酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手に攫《や》れよ。)と言われて、畳に喰《くい》ついて泣いていると、(親がないんだわねえ、)と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。(晩の飯を内で食って、翌日《あす》の飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。)と、それから親鳥の声を真似《まね》て、今でも囀《さえず》る独逸語だ。
 世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな料簡方《りょうけんかた》だい。
 可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家《いっけ》の繁昌《はんじょう》とは何事だろう。
 たまたま人間に生を受けて、しかも別嬪《べっぴん》に生れたものを、一生にたった一度、生命《いのち》とはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥《めくらどり》を占めるように野郎の懐へ捻込《ねじこ》んで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。
 見たが可い、こう、己《おれ》が腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、新粉《しんこ》細工で拵《こしら》えた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」
 英臣の目は血走った。

       五十五

「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女の児《こ》を親勝手に縁附けるほど惨《むご》たらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、無垢《むく》な女《むすめ》が、頭《かぶり》一ツ掉《ふ》り得るものか。羞含《はにか》んで、ぼうとなって、俯向《うつむ》くので話が極《きま》って、赫《かっ》と逆上《のぼ》せた奴を車に乗せて、回生剤《きつけ》のような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝て起《おき》りゃ人の女房だ。
 うっかり他《ひと》と口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人が繋《つなが》って、光った態《なり》でもして歩行《ある》けば、親達は緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》でも着たように汝《うぬ》が肩身をひけらかすんだね。
 娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい味噌漉《みそこし》を提げたって、玉の冠を被《かぶ》ったよりは嬉しがるのを知らねえのか。傍《はた》の目からは筵《むしろ》と見えても、当人には綾錦《あやにしき》だ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。
 己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へ入《へえ》っても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」
「不埒《ふらち》な奴だ?」
 と揺《ゆらめ》いた英臣の髯の色、口を開《あ》いて、黒煙に似た。
「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって怯然《びく》ともしねえ。豪《えら》い、と讃《ほ》めりゃ吃驚《びっくり》するがね。
 今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんの許《とこ》のような家風で、婿を持たした娘たちと、情事《いろごと》をするくらい、下女を演劇《しばい》に連出すより、もっと容易《たやす》いのは通相場よ。
 こう、もう威張ったって仕ようがねえ。恐怖《おっかな》くはないと言えば、」
 と微笑《ほほえ》みながら、
「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。――
 おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹を栄《さかえ》さそうと、お前さ
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