と》れると云うので、」
と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて俯向《うつむ》いた。
「何より利くそうなが、主あ飲《のま》しったか。」
「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、大《おおき》な芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」
とがっくり首を掉《ふ》って、
「験《げん》が見えぬじゃて。」
験《しるし》なきにはあらずかし、御身の骸《むくろ》は疾《と》く消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、果敢《はか》なくそこに立てるならずや。
ごほごほと頷《うなず》き頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は手巾《ハンケチ》で口を圧《おさ》えながら、甘酒の茶碗を、衝《つ》と傍《わき》へ奪ったのである。
十二
「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、効験《ききめ》の無い事はあるまいが、疾《はや》く快《よ》うなろうと思いなさる慾《よく》で、焦《あせ》らっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、主《ぬし》、気の持ちように依るぞいの。」
と婆さんは渠《かれ》を慰めるような、自分も勢《せい》の無いような事を云う。
病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、
「この頃は病気《やまい》と張合う勇《いさみ》もないで、どうなとしてくれ、もう投身《なげみ》じゃ。人に由っては大蒜《にんにく》が可《え》え、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、私《わし》はこう見えても癆咳《ろうがい》とは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえ除《と》れれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」
愚痴のあわれや、繰返して、杖に縋《すが》った手を置替え、
「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」
と切なそうに顔を獅噛《しか》める。
「焦らっしゃる事よ、苛《じ》れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」
「ちっと休まいて貰いたいがの、」
菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、
「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。見霽《みはらし》へ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然《ぞっ》とする慄然《ぞっ》とする、」
と重そうな頭《かぶり》を掉《ふ》って、顔を横向きに杖を上げると、尖《さき》がぶるぶる震う。
こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を弾《はじ》いて禁《と》めたので黙った。
「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」
物は言わず、睡《ねむ》るがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉《とんぼ》も留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。
「お婆さん、」
と早瀬が調子高に呼んだ。
さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生《よみがえ》ったようになって、
「へい、」
「今の、風説《うわさ》ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」
と、威《おど》しては可《い》けそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。
「いえ、一ツ心当りは無いか、家《うち》を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」
「ああ、そうね。」
「どこか、貸家はあるまいか。」
「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町《たかじょうまち》辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」
「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」
「どんなのがお望みでござりまするやら、」
「廉《やす》いのが可《い》い、何でも廉いのが可いんだよ。」
「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと圧《おさ》えて云う。
「長屋で可いのよ、長屋々々。」
と構わず、遣るので、また目で叱る。
「へへへ、お幾干《いくら》ばかりなのをお捜しなされまするやら。」
心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行《いざ》って出る。
「静岡じゃ、お米は一升|幾干《いくら》だい。」
「ええ。」
「厭よ、後生。」
と婆さんを避《よ》けかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は後《うしろ》へ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、
「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」
「もう、私は、」と堪《たま》りかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾《ハンケチ》で半ば蔽《おお》いながら、茶店を境内へ衝《つっ》と出る。
十三
どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿《わらじばき》の親仁《おやじ》だの、日和下駄で尻端折《しりはしょ》り、高帽という壮佼《あにい》などが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。
石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際|鮮麗《あざやか》で、青葉越に緋鯉《ひごい》の躍る池の水に、影も映りそうに彳《たたず》んだが、手巾《ハンケチ》を振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、
「可い加減になさいよ、極《きま》りが悪いじゃありませんか。」
「はい、お忘れもの。」
と澄ました顔で、洋傘《ひがさ》を持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり[#「しっとり」に傍点]、中には、じめじめとするのさえある。……
夫人はちょいと俯目《ふしめ》になって、軽《かろ》くその洋傘《ひがさ》を支《つ》いて、
「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」
「はッ、主税|御供《おんとも》仕《つかまつ》りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」
「静岡は暢気《のんき》でしょう、ほほほほほ。」
「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」
「あらまた、厭ねえ、貴下《あなた》は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍《かに》して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」
「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」
「どうせね、柳橋のようなわけには……」
「いいえ、今も、子守女《もりっこ》めらが、貴女が手巾をお掉《ふ》りなさるのを見て、……はははは、」
「何ですって、」
「はははははは。」
と事も無げに笑いながら、
「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッと囃《はや》して遁《に》げましたぜ。」
ツンと横を向く、脊が屹《きっ》と高くなった。引《ひっ》かなぐって、その手巾をはたと地《つち》に擲《なげう》つや否や、裳《もすそ》を蹴《けっ》て、前途《むこう》へつかつか。
その時義経少しも騒がず、落ちた菫《すみれ》色の絹に風が戦《そよ》いで、鳩の羽《は》はっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと袂《たもと》に突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向《うつむ》いたが、直ぐに大跨《おおまた》に夫人の後について、社《やしろ》の廻廊を曲った所で追着《おッつ》いた。
「夫人《おくさん》。」
「…………」
「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人《おくさん》、」
「…………」
「英吉君の御妹御、菅子さん、」
「…………」
「島山夫人……河野令嬢……不可《いけな》い、不可い。」
と口の裡《うち》で云って、歩行《ある》き歩行き、
「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更|独《ひとり》じゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の直《ね》は申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が住《すま》れそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」
いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。
社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。
夫人はもとより口を開かぬ。
やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。
大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の破《やぶれ》から人顔も見えないので、その時ずッと寄って、
「ものを云って下さいよ。」
「…………」
「夫人《おくさん》、」
「…………」
十四
少時《しばらく》――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色《かおつき》でもないが、腕を拱《こまぬ》いた態《なり》で、夫人の一足後れに跟《つ》いて行《ゆ》く。
裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように寂寞《ひっそり》して、空屋かと思えば、蜘蛛《くも》の巣を引くような糸車の音が何家《どこ》ともなく戸外《おもて》へ漏れる。路傍《みちばた》に石の古井筒があるが、欠目に青苔《あおごけ》の生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ燥《はしゃ》いで、流《ながし》も乾《から》びている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると唸《うめ》くよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴《せきどめあめ》と黒く書いた広告《びら》の、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。
振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗《まっくら》な隧道《トンネル》に樹立《こだち》が塞いで、炎のように光線《ひざし》が透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と聳《そび》え立って峰から哄《どっ》と吹き下した。
かつ散る紅《くれない》、靡《なび》いたのは、夫人の褄《つま》と軒の鯛《たい》で、鯛は恵比寿《えびす》が引抱《ひっかか》えた処の絵を、色は褪《あ》せたが紺暖簾《こんのれん》に染めて掛けた、一軒(御染物処《おんそめものどころ》)があったのである。
廂《ひさし》から突出した物干棹《ものほしざお》に、薄汚れた紅《もみ》の切《きれ》が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥《ごみ》で埋《うま》った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋《あばらや》で、煤《すす》のふさふさと下った真黒《まっくろ》な潜戸《くぐりど》の上の壁に、何の禁厭《まじない》やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの狗《いぬ》の、前脚を立てた姿が、雨浸《あめじみ》に浮び出でて朦朧《もうろう》とお札の中に顕《あらわ》れて活《いけ》るがごとし。それでも鬼が来て覗《のぞ》くか、楽書で捏《でっ》ちたような雨戸の、節穴の下に柊《ひいらぎ》の枝が落ちていた……鬼も屈《かが》まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄《ものすご》い。
フト立留まって、この茅家《あばらや》を覗《なが》めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘《ひがさ》を袖
前へ
次へ
全43ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング